無償化はタダではできない

 無償化は嬉しい。
 しかしこれはモノやサービスを受け取る側に回った場合だ。
 
 たとえば学校の授業料無償化。
 ありがたいね。
 でも、先生たちに給料を払わなければならない。学校で使う電気代や水道代はどうするの。施設を維持するのにだってお金がかかる。

 あなたからはお金はいただきません。その代わり他の誰かにその分を負担してもらいます。
 つまり、無償化というのは、「じゃあ誰がそれを負担するの?」という話とセットなのだ。無償化はタダじゃないというのは、そういう意味だ。

 今、幼児教育の無償化とか、大学授業料の無償化が話題になっている。
 できればそうしてほしい。そこまではみんな賛成だ。

 が、ここで「じゃあ誰がそれを負担するの?」という問題が浮上する。
 難しく言うと財源論だ。

 財源論は4つある。
 1 ほかに回しているお金をこっちに持ってくる。
 2 無駄を省いてお金をねん出する。
 3 税金でまかなう。
 4 借金でまかなう。

 1は持って行かれるほうからの反発がありそうだ。
 2の無駄を省くはいつだって大事だが、これで巨額の財源が確保できるとは思えない。
 そうすると、残るは3か4のどちらかだ。

 3の税金でまかなうは、新たな税を設けるか、いまある税のどれかを増税することになる。税金というのは常にそうだが、誰からどれくらい取るかが問題になる。
 税金でまかなうは、かなり現実的な案なのだが、現実的な分だけ、利害が衝突し、まとまりづらい。

 4の借金でまかなうは国債の発行ということになるが、借金はいずれ返済しなければならない。今借金して無償化しても、後々、その借金で教育を受けた人たちが、それを返すことになる。よく言われる「親の借金を子が返す」というやつだ。

 今、選挙中で、各党がそれぞれの政策・公約を競っているが、教育無償化にかぎらず、何をやるにも財源が必要なわけで、そこに目を向けようという話であった。

こんな勉強役に立つんですかと問われたら

 何のために勉強するか?
 と、生徒に聞かれたらどう答えるか。

 これが受験勉強であれば簡単だ。
 志望校に合格するため。終了。
 これ覚えておけよ。入試に出るから。ハイ!

 そうじゃなくて、勉強一般となると、年端の行かない子供らに納得行く説明をするのは難しい。
 小学生ぐらいだと、そもそもそういう疑問を持たないし、大学生ぐらいになればちょっとは世の中のことも分かってくるが、その中間に位置する中高生に、勉強の意味を納得させるのは難しい。

 私は高校教員の経験があるわけだが、高校生はまだいい。真に理解したかどうかは分からないが、何となくその場は納得させることができる。だが、中学生はどうなんだろう。経験がないのでよく分からない。

 調理実習なんて意味あるんですか。
 マラソン走ってどうするんですか。
 公式覚えて役に立つんですか。
 人名知っててどこかで使えるんですか。

 なんだよ。オマエらやりたくねえこと挙げてるだけじゃねえか。
 と、思いつつ、ここは教員のプライドにかけてバシッと言ってやらなければいかん。

 そうだな。たしかに学校で習ったことの多くは、将来使わないかもしれない。ただ、何が必要で何が不必要かは、残念だが、現時点では分からない。
 しかし、どうしても必要、不必要を今ここで分けたいというなら、一つ方法がある。
 可能性を排除することだ。または、あきらめる覚悟を持つことだ。

 自分はそういう知識や技術を必要とする職業には断じてつかないと、今決めればいいのだ。これはやらない、あれもやらないと、どんどん可能性を消して行くことだ。できるだけ消して行って、そして、残ったことだけやればいい。楽だぞ。

 ところが、世の中何が起きるか分からない。要らないと思った知識や技術が、突如求められることがある。
 あわててやるか。
 まあ、それでもいいが。後でやるのは時間も金もかかりすぎるし、世の中そんなにノンビリ動いているわけじゃない。自分の都合に合わせて待ってはくれないんだ。
 そこで必要なのは、あきらめだ。

 さあ、どうだ。
 自分の可能性をどんどん排除して行って、いざというときはあきらめる覚悟があれば、明日から学校に来なくたっていいくらいだ。

 以上は、高校生バージョン(比較的レベルの高い生徒向け)なのだが、使えるかな?

問題児は親も問題なんだがそれを言ったらお仕舞だ

 学校の先生やってりゃ、いろんな生徒とめぐり会う。
 だけでなく、いろんな親とも遭遇する。

 この親にしてこの子ありなどと言うが、生徒指導上の問題を起こした生徒の親に会ってみると、なるほどそういうことだったのかと合点が行くことがしばしばある。
 
 わが子可愛さは分かるが、担任を交代させろだの、転勤(異動)させろだの、理不尽な要求をされた経験のある先生は少なくないだろう。
 うちの子は他と違うんだからと、学校のルールの適用から外せなどという要求は、しょっちゅうだ。

 とにかく非常識なんだな。
 息子(娘)がこんなになったのは、あんた(親)がそういうふうに育てたからなんじゃねえの。と、言いたいのは山々だが、すんでのところでこらえる。
 まったく。
 生徒の指導は仕事だからどこまでもやるが、親の指導の分まで給料もらっちゃいねえぞ。

 以上。若く血気盛んなころの話。

 今はどうか。
 子どもたちは、いろんな環境の中に育ってきている。親の考え方。価値観もさまざまだ。学校や教員は、それを所与のものとして、まず受け入れなくてはならない。
 学校や先生の指導はそこからスタートする。今さらやり直しはきかないのだ。

 子どもたちが何か学校で問題を起こしたとして、それを親や家庭の責任に帰そうとするのは、教員としての敗北である。

 教育の力。
 もし、先生方がそこに信を置いているなら、育った環境をとやかく言うべきではない。どんな家庭に育ったどんな子どもであっても、まっとうな人間に育てあげるのが先生の使命というものだ。

 ただ、先生だってごく普通の人間だからね。
 とんでもない親や、そこから生まれたとんでもない子どもをどう導くかなんてことは、大学じゃあ教えてくれないわけだし。
 特に若い先生は、全部一人でしょい込もうとしたら自分がつぶれる。

 自分がやる。
 その心意気は結構だが、教育、とりわけ学校教育ってものは、組織の力、チームワークでやるものだっていうことを忘れちゃいけない。

物議を醸す発言はこれで結構難しい

 「物議を醸す」(ぶつぎをかもす)。
 世間の議論を引き起こすというような意味だが、政治家の場合などは、ついうっかりの失言で本人意図しないところで物議を醸してしまったりする。
 一方、意図的にこれを行う人もいる。

 たとえばホリエモンこと堀江貴文氏などがこの種の人で、つい最近も、保育士の給料がなぜ低いのかという問いに、「誰にでも出来る仕事だからです」と、思い切ったコメントをした。
 まあ、私のような無名の人が同じことを言っても無視されるだけだが、さすが堀江さんほどの著名人になると、世間は放っておかない。ネット上では、さっそく賛否入り乱れての論戦が始まった。

 ただ世間と違うことを言うだけではダメ。
 極論を言えばいいかというとこれもダメ。
 物議を醸す発言というのは、これで結構難しいのである。

  いくらなんでもその言い方はないだろうとか、それは変だろうという反対派ばかりだとバッシングされて終わり。
 物議を醸すには、一方に、「言い方は何だが、たしかにそれも一理あるよな」という賛成派が登場しなければならない。

 問題提起能力。
 そういう言葉があるのかどうか分からんが、意図して議論を引き起こそうとする人には、こうした能力が求められる。
 また、これまでの議論が膠着状態にあるときに、まったく違った切り口や視点を提示する力も求められる。

 というわけで、意図して「物議を醸すというのは、私ごときには大変困難なことであるが、ただ正論を述べるにとどまらず、問題解決の糸口になるような新たな切り口を提示したいものである。

最後の定期考査、内申点を上げるためだけじゃない

 中学3年生は2学期までの成績が調査書(いわゆる内申書)に記載されることもあり、10月に中間、それが終わるとすぐ11月に期末という忙しいスケジュールになる(注:3学期制の場合)。

 調査書の学習の記録の評定、などと言うと字数が多くて面倒なので、内申点と言うことにするが、近々行われる定期考査は、内申点を上げるラストチャンスとなる。

 埼玉県公立入試の場合、「1:1:2」とか「1:1:3」という形で、3年の成績に重みを持たせているので、たとえば、ある1教科の評定が3から4へとか、4から5へという具合に1上がると、2ポイントか3ポイント上がるという計算になる。

 受験する学校にもよるが、内申点の1ポイントは、学力検査の得点に換算すれば、1点~2点である。と言うことは、ある1教科の評定が上がったとしても、自身の持ち点が2、3点、あるいは4、5点上がるということでしかない。これは高々小問1問分だ。

 なんだ、そんなものか。
 ただし、1点2点の差が合否を分けるのが入試であるから、内申点を上げるために中間・期末を頑張ろうというのは、間違ってはいない。

 中間・期末を頑張っておいた方がいい理由は、むしろ学力検査対策の方にある。
 3年生の今習っている内容、さらにこれから習う内容は、当然ながら入試出題範囲であるが、ここが意外に弱点となる。
 中学校では、ともかく形だけでも範囲を終わらそうと授業スピードを上げる。当然理解不足の生徒が出てくる。問題演習も足りなくなる。

 だから、内申点がどうこうよりも、今習っている範囲が、実際の学力検査で出題されたら、どのくらいの点数が取れるかという考え方をしたほうがいい。

 むろん、目の前のテストでより高い点数を取るために頑張るのだから、どっちでも同じようなものだが、「これは内申点対策だ」という意識に加え、「これは学力検査対策だ」という意識も持つべきであろう。

 今さら4のものを5に引き上げるのは大変なことだ。
 じゃあ、あきらめる。
 そうじゃない。
 4は4のままかもしれないが、ここで頑張れば、学力検査で5点とか10点余計に取れるかもしれないのだ。

「つかみ」は重要である

 「つかみ」は大事だなあ、という話である。

 演説上手と評判の小泉進次郎氏が、選挙のたびに浦和駅前にやって来る。
 別にファンや支持者ではないが、聞きに行ってみる。
 YouTubeでも見られるが、やはり「生・進次郎」のほうが面白い。

 「つかみ」とは、相手の心をつかむという意味の「つかみ」で、話の冒頭数分間のしゃべり。
 ここで聴衆を惹きつけないと最後まで聞いてもらえない。
 学校の授業で言えば、「導入」と言われる部分だ。先生方は、日夜この部分の工夫、研究に余念がないものと思われる。

 進次郎流スピーチ。
1 文章短く難しい言葉を使わない。
 このあたりは父・小泉純一郎譲りか。
2 ご当地ネタ
 よく調べている。これで聴衆は一気に親近感を持つ。
3 エピソード
 自身の体験を語るが、自慢話にならないよう配慮。
4 笑いをとる
 このあたりは天性のものかもしれない。
5 聞き手との一体感
 芸能界で言われる「客いじり」というやつかな。
 だいたい、こんなところか。
 
 たとえば「5 聞き手との一体感」。
 普通の議員だと、「皆様、ご通勤ご通学お疲れ様です」とか、「近隣の皆様、ご迷惑をおかけします」などと、どこかで聞いたようなセリフから入るが、進次郎氏はそんな通り一遍のことは言わない。

 「お母さん。お買い物帰り。ネギはみ出してます(笑)。すき焼きですか(笑)」
 「お勤め帰りのお父さん。家でお子さんが待ってる。『また、飲みに行ってるんじゃなか』って疑われるかもしれない(笑)」
 「タクシードライバーの皆さん、お仕事の邪魔になってるかもしれません。皆さん、終わったらぜひタクシー使って帰りましょう(笑)」
 (※以上は私の創作であり実際とは異なるが、こんな感じである)

 政治家の演説と、学校の授業や講演会・説明会のスピーチあるいはプレゼンなどを一緒にはできない。そもそも目的が異なる。
 が、「つかみ」の重要性という点では共通するものがありそうだ。

電車で席を譲られたら座るぞ宣言

 年寄りは、電車で席を譲られたら、「大丈夫です」とか言わないで、素直に好意を受けるべきである。

 私は、今のところ、いかにもお年寄りという風には見えないらしく、滅多に席を譲られることはないが、それでも中高生や大学生から見れば十分に爺さんであるから、時には「どうぞ」なんて言われることがある。

 読者諸氏は先刻ご承知の通り、私は山登りやランニングで日頃から鍛えているから、電車の中で1時間やそこら立っているのは何でもない。でも、譲られたら好意は有り難く受け取る。

 席を譲った若者は、「おれ今日、ちょっといいことしてやったぜ」といい気分になるだろう。で、次も同じように行動するだろう。
 もし私が、「いや、大丈夫です」と断ったら、気まずい思いをして、次の機会に躊躇するかもしれない。
 だから、別にそれほど座りたくなくても、「いやぁ、助かったよ。ありがとう」と好意は受けとったほうがいいのである。

 困っている人がいたら助ける。
 日本中の若者には、そういう心を持った人間に育ってもらいたい。そのためにわれわれは、好意を有難く受け取る年寄りになったほうがいい。

 人に対する親切は、時に大きなお世話ともなるわけだが、電車での席の譲り合い程度なら悩むこともあるまい。
 私は断固、譲られたら座るぞ。

浦和一女における女子の特性を生かした教育

 浦和一女に行ってきた。私の事務所からもっとも近い学校である。
 「よみうり進学メディア11月号(進路指導特集)」の取材。今回は4校取材したが、すべての学校で校長先生に話を聞くことができた。

 女子校ならではの指導。
 いろいろ話を聞いて行くと、「こいつはどう見ても男子には向かんな」という指導法が次々と出てくる。

 たしかに自分の経験に照らしてみても、男子と女子では食いつく場面が違うし、学びのプロセスも異なる。
 歴史を教えていても、男子は対立や抗争、民族移動なんかには食いつきがいい。どんな武器を使ったかなんて話をしてやると身を乗り出してくる。地図も好きだ。女子はそういうのは興味なし。
 絵画などを見せてやると、女子は見るが男子はスルー。
 黒板にいっぱい書くと、男子には不評だが、女子には好評。

 スポーツの場面でも、男子は下手でも何でもとりあえずゲームやろうぜとなるが、女子は、きちんと技を練習したい。

 もちろん個人差はあるわけだが、男子と女子の差は確かにある。
 そこで、女子校においては、女子の特性を活かし、その能力を最大限に引き出す仕掛けを施せば、大きな成果を上げることが可能だということになる。

 近年、共学志向の女子が増え、女子校離れが深刻だと言われている。私立高校や大学の共学化も盛んだ。
 それが時代の流れなのかもしれないし、共学には共学の良さもある。だが、浦和一女のような学校を見ていると、やはり「女子校」というのも残しておく価値があると感じる。

 オマケ。
 私はほぼ毎日のように浦和一女生を見ている。早い生徒は朝7時から登校している。歩くスピードが速い。休日、部活に来るときも制服を着て来るのが決まりのようだ。鞄は自由のようでリュックサックが多い。夏場は日傘をさすのが流行している。駅前のパルコでは校章をはずしている生徒をときどき見かけるが制服でバレてる。

危機感を持たせようなんて無駄なことだ

 公立高校の校長から、しばしばこんな話を聞く。
 「私立は羨ましい。先生方が積極的に生徒募集活動に動いてくれる。公立の先生は身分や給与が保証されていることもあってまったく危機感がない」

 これはよく言う「隣の芝生は青く見える」っていうやつだ。
 私立の先生だって、今どき身分や給与はちゃんと保証されている。それに、埼玉県の場合で言えば、生徒が集まらなくて廃校寸前という学校はなく(高校は集まっても中学が集まらないという学校はあるが)、危機感を持つような状況ではない。

 校長が、先生方に危機感を持てと言うのは、先生が生徒に自信を持てとか自分を信じろとか実体のないアドバイス?をしているのと同じで、何の効き目もない。
 
 会社の場合なら、社長はじめとする幹部は、組織の危機を自分の危機に置き換えられる。私のような零細・極小企業の経営者ならなおさらだ。しかし、一般の社員は、余程のことがなければ組織の危機を自分の危機に置き換えて考えるなどできないし、そもそも、そんなことしなくていい。

 だから、校長が学校経営の先行きに危機感をおぼえたとしても、同じ意識を一般の先生に求めるのは無理筋というものなのだ。

 でも、一般の先生たちにも、もっと前向きに、やる気を持って、主体的に取り組んでもらいたい。特に生徒募集に関して。
 だったら話は簡単。

 危機の話じゃなく、骨の折れる募集活動の先に開けてくるであろう、明るい未来の姿を示してやることだ。
 「そんなんじゃ、希望の学校に行けないぞ」と言うより、「こうすれば希望の学校に行けるぞ」の方が、効き目があるのと一緒だ。

 指揮官たる校長は、最悪のシナリオを想定しておいたほうがいい。そのことでうじうじ悩むのも給料のうちだ。
 しかし、それを部下である一般の先生にそのまま示すことに意味はない。やる気を削いでしまう可能性の方が高い。

 明るい未来の話をしようぜ。

正智深谷高校と仏教の話

 新聞取材のため正智深谷(しょうちふかや)高校へ。

 学校の駐車場に車を入れようとしたら、向こうから男子生徒の一団がやって来た。近くのグランドで体育の授業があり、その帰りのようだ。われわれは、生徒をやり過ごしてからと車を停めて待とうとした。すると、一人の男子生徒が他の生徒を制した上で、「お先にどうぞ」のサインを送ってきた。その動作が実にカッコいい。というだけでなく、実に手慣れている。たぶん常日頃からそのようにしているのだろう。いい風景だな。

 スポーツの盛んな学校である。
 男子バスケ、男女バレー、女子卓球、サッカー、ラグビーなど全国出場のクラブが目白押し。
 学業の方も、今年は久しぶりに東大合格が出るなど確実に結果を出している。

 この学校が、いわゆる仏教系の学校であることは意外に知られていない。
 校訓は浄土宗開祖・法然上人の教えに基づく「選択(せんちゃく)」「専修(せんじゅ)」。「選択」は正しいものを選びとること。「専修」はひたすらに打ち込むこと。
 全国の仏教系学校の中には、信徒の子弟を教育するためにつくられた学校もあるが、この学校はそこまで宗教色は強くない。あくまでも教育のバックボーンに仏教精神を置いているということである。

 とは言え、代々僧籍を持った方が校長を務めることが普通だったこの学校で、民間企業出身の加藤慎也・現校長は異色の存在である。
 その加藤校長。今年の夏一念発起し京都の本山で3週間にわたる厳しい修行をおこなってきたという。
 「日頃生徒たちに仏教や仏教精神について語っているが、自分自身、本当にその真髄を理解しているのだろうか」
 ずっとそんな思いがあったそうだ。

 自身の修行が本当に学校のため、生徒のためになるのかという迷いもあった。多忙な校長が1か月近く学校を空けていいものかという現実的な悩みもあった。しかし、決断し実行した。
 ご本人も立派だと思うが、送り出した学園側や先生方も立派だと思う。

 数学や英語を教えるだけが教師ではない。教師はその存在自体が教育である。
 途中で辞めた私が言っても説得力に欠けるが、そういうものだと思う。
 加藤校長から、教師としての、いや、人としての在り方・生き方の素晴らしいお手本を見せてもらったと思う。

 念のため。今日の取材目的は同校の進路指導について聞くことであった。