風呂敷残業、ご苦労様

 今日は月末金曜日。
 プレミアムフライデーは残業せずに早く帰りましょう。
 
 と言いつつ、午後7時を過ぎちゃったが、突然、「風呂敷残業」という言葉を思い出してしまったので、それを書いておこう。

 今の若い人は、風呂敷って使ったことあるかな。日本が誇る究極の持ち運び兼収納ツールなんだけど、まあ、私の年代ですらめったに使ったことないから、使ったことないよな。

 で、風呂敷残業なんだが、家に持ち帰って仕事することを言う。
 私の教員時代はこれがものすごく多かった。今の先生もたぶん同じだろう。
 一番多いのが、教材研究。つまり授業の準備のための勉強だね。テストの採点なんかも家に持ち帰ることがあった。

 学校でやればいいだろう。
 まあ、そう言われるんだが、授業の空き時間は、たいてい会議なんかでつぶれるよ。来客もあるし、昼休みは生徒がやって来るし、放課後は部活だ。日曜日も部活の大会や練習試合。
 こういう中で、少しでもいい授業をしようと思ったら、その準備は帰宅後、家でやるしかない。
 もしこれを正式に残業に含めたら、月100時間なんか軽くオーバーするだろう。世に言う過労死レベルだ。

 私が教員から民間のサラリーマンに転職したとき、「先生は楽でいいよな。夏休みもあるし」と、羨ましがられた、いや、馬鹿にされたが、年中「ちょっと一杯飲みに行くか」なんてやってるオマエらの方が、よっぽど楽勝じゃねえかと思った。どんな仕事だって、本気でやってるやつは大変なんだよ。

 ゴールデンウィークも「風呂敷残業」をかかえている先生方、ご苦労さん。

学校選択問題、英語はもうちょっと難しくてもよかった

 埼玉県公立高校入試学力検査の平均点について続報。

 初めに、全日制受験者が4万6543人で、そのうち「学選択問題」を受けた生徒が、9977人いたことを頭に入れておこう。受験者全体の21.4%である。
 やや乱暴な言い方になるが、上位2割の受験生が、難しい方の「学校選択問題」を受けたということだ。

 当初の方針通り、数学の一般問題(学力検査問題)は、昨年までより易しくなった(県の言い方では取り組みやすい問題が増えた)。
 しかし、平均点は昨年の51.1点より6.7点下がってしまった。
 易しくなっていないのではないか?

 いや、そうとは言えない。
 昨年の51.1点は、上位2割の受験生も含んだ平均点だが、今年は、平均点を上に引っ張る上位2割は含んでいない。それでも44.4点に収まったのだから、取り組みやすい問題を増やすという目標は実現されたと言っていい。
 欲を言えば、50点を少し上回って欲しかった。

 一方、応用的な問題も含む、難しい方の「学校選択問題」は、予想されたことだが、43.2点と非常に低かった。
 浦和・大宮あたりでも平均点は60点台にとどまったとみられるので、20校の中でも難易度が下がる和光国際・熊谷西・越ヶ谷・所沢・川越南あたりは、20点台だったかもしれない。これらの学校では、他の教科の出来具合によっては、数学10点台での合格者も出現しただろう。

 上位2割が受けて平均点が40点台ということをどう見るか。
 改革初年度としては、ちょっと難し過ぎたという思いは消えないが、上位2割が受けた難しい方が40点台、それ以外が受けた易しい方も40点台という点に着目すれば、難易度にはっきり差がついたわけで、当初の目標は達成されたと言える。

 英語はどうか。
 易しい方の一般問題は、52.0点。昨年の57.4点より下がっているが、前述したとおり、上位2割が抜けての結果であるから、妥当な線と言えるだろう。

 「学校選択問題」の71.9点はどうだろう。
 昨年までの問題であれば、80点は難なくクリアできたであろう上位2割の生徒が受けた結果であるから、確かに難しくなったと言えるが、数学を基準に考えると、あまり難易度は上がっていないと考えられる。平均点が50点台後半から60点台に収まる問題でも良かったのではないか。
 28点と高い配点のリスニング問題が、難しい方も易しい方も共通だったので、ここを変えるだけでも、だいぶ違った結果になったのではないか。

 以上、午前中より少し詳しい分析だ。

学校選択問題、数学は平均43.2点

 埼玉県教育局は4月27日、平成29年度公立入試学力検査の平均点を発表した。

 各教科の平均点は次のとおり。(カッコ内は28年度)
 国語53.3点(57.9点)
 社会60.6点(63.7点)
 数学44.4点(51.1点)
 理科48.5点(39.2点)
 英語52.0点(57.4点)

 20校が導入した学校選択問題の平均点は次のとおり。
 数学43.2点
 英語71.9点

 数学の平均点が50点を下回りそうだというのは、入試後に多くの人が予想したとおり。それに比べ、英語は易しかったという意見が多く聞かれたが、やはり71.9点と、非常に高かった。平均点が70点を超えことは過去に例がない。

 詳しい分析は後日。
 とりあえず速報版。

体育の授業を見ると学校のことがよく分かる

 この3日間、仕事上の都合で朝から晩まで学校にいた。
 朝から晩とは大げさだが、朝の登校風景から昼休み、放課後まで、生徒や先生方のいろんな姿を見ることができ、学校情報の発信を仕事とする私にとって貴重な経験となった。

 今日は中学生の体育の授業を2時間見た。
 体育の授業を見て何が分かるの?
 いや、これが分かるんだな。他に何も見なくたって、これだけ見ればその学校や、先生や生徒のことがほとんど分かるというくらい、いろんなことが分かる。

 音楽に美術に家庭科。こういう実技系の教科は、英語や数学といった座学の教科以上に、生徒の本来の姿や、先生と生徒の関係性が観察できるんだ。

 やたら見学者が多いのはダメだ。もちろん怪我や病気は仕方ないが。
 整列ができないのもダメ。準備運動きちんとできないのもダメ。それと声が出てないのもまずいな。みんなで楽しく身体を動かしてると、自然と声は出てくるものだ。あと、道具をていねいに扱えないのもいかんな。後片付けちゃんとできるか。

 運動そのものは得意な子、不得意な子がいるのはやむを得ないが、下手は下手なりにがんばっているかどうか。下手な子を馬鹿にしていないか。みんなで励ましているかどうか。
 ということで、観察ポイントは盛りだくさん。

 塾の先生方にも、あるいは受験生や保護者の皆さんにも、機会があればぜひ体育の授業を見ていただきたい。

友達作れは子供を追い詰める言葉

 ♪1年生になったら 1年生になったら
   ともだち100人 できるかな
   100人で 食べたいな 富士山の上で おにぎりを
   パックン パックン パックンと♪
   有名な歌、「1年生になったら」。

 この歌には、前々から人数が合わないんじゃないかとツッコミが入っている。
 自分プラスともだち100人なら、富士山の上でおにぎりを食べるのは101人じゃないと合わないというわけである。
 
 まあ、そんなことはいいとして、世の中では友達がたくさんいることはいいことだとされている。だから、われわれ大人も、中学校に入ったら、高校に入ったら、新しい友達を作れとついつい言ってしまう。

 だが、落ち着いて考えてみれば、友達は作るものではなく、自然になるものである。つまり、「友達づくり」という行為は存在しないのだ。存在しない行為を若者に求めてはいけない。

 友達がいれば楽しいこともあるが、逆に面倒なこともある。単なる知り合い程度だったら、何かに誘われても何かを頼まれても簡単に断れるが、友達からだと断りにくい。
 その点、友達の少ない私は、人間関係に悩むことがない。友達が少ないことにもちゃんとメリットがあるのだ。

 友達をたくさん作れというのは、子供たちを追い詰める言葉かもしれない。
 友達が多いか少ないかなんて、声がデカいか小さいかの違い程度であって、性格やら人間性まで問われるようなものではない。

 「ボク、○○クンとお友達になったんだ」
 「そうか、そいつは良かった。仲良くやれよ」

 この程度の話だ。

今村大臣、学習能力ないのか

 今村雅弘復興大臣がまたやらかした。

 前回の記者会見での失言は、記者の挑発に乗ってしまったようなところもあり、多少は同情していたのだが、今回のはさすがにアウトだろう。

 同大臣は25日、都内のホテルで開かれた自民党二階派のパーティで、東日本大震災について「地方だったから良かった。これがもっと首都圏に近かったりすると莫大な被害があった」という発言をした。

 これを聞いた被災者はどう思ったろうね。
 他ならぬ復興担当大臣の発言だぜ。

 政治家のパーティには、付き合いで何度も出ているので、だいたいの雰囲気は知っているつもりだ。出席者はおおむね支持者であるから、気を許して、結構軽口をたたいたりする政治家が多い。でも、議会や正式な会議じゃないから、みんな大目に見ている。

 だが、そういうシチュエーションでの発言ということを考慮しても、それはないだろうと思う。
 私は、人の揚げ足をとったり、言葉尻をとらえたりというのはやらない方だと思っているが、さすがにこれは呆れた。

 こいつ馬鹿なんじゃないかと思って経歴を調べてみたら、東京大学法学部卒ではないか。いるんだね、東大出の馬鹿。
 もっとも、この人は私より5歳上の70歳だから、東大は50年前の話だ。半世紀前は優秀だったんだろうが、その後劣化が進んだようだ。

 私はこういう70歳にはなりたくないな。気をつけよう。


 追伸:書き終えてニュースを見たら、辞任の方向だという。当たり前だ。


「とことん頑張る派」は危ない

 年一度の生活習慣病予防健診に行ってきた。

 しかし、こういうのは、私のような年寄りが行くより、働き盛りの塾長たちこそ行くべきだな。
 みんな、ちゃんと行ってるか。
 生活は不規則で、食生活にも問題が多いんだから、検査は受けておいたほうがいい。
 ときどき検査結果が悪いと嫌だから行きたくないなんていう人がいるが、それじゃ、自信がないからテストを受けたくないと言っている生徒と同じだ。

 すでに65歳を過ぎた私がじきにくたばっても社会的な損失はたかが知れているが、まだ若い人たちは、これから家庭を築き、子供を育て、仕事もバリバリやって、大いに世の中に貢献してもらわなければならない。だから、社会的リスクという観点からも、健康管理は重要なのである。

 健康のためには、適度な運動をしろとか、食生活に気を使えと言われるが、おそらく最大の敵はストレスである。

 以前に書いたような気もするが、知り合いに健康オタクと言っていいような人物がいた。やれ、これが血液にいい、これを食うと免疫力がつく、これをやると内臓が丈夫になると、うるさいこと。
 周りのみんなは、「すごいですね。とても真似できない」と感心したのだが、真似なくて良かったのである。その人は50手前であっさり亡くなった。たぶん、健康のためにはこういう生活をしなければならない、こういうものを食べなくてはいけないということが、ストレスになっていたんだと思う。

 世の中には、はなっから頑張る気がないやつと、とことん頑張るやつがいるが、もし自分が「とことん頑張る派」であると自覚するなら、自分の辞書の中に、「まあ、こんなもんでいいか」、「まあ、しょうがないか」を付け加え、時々使ってみることだ。

「パクリ」と「模倣」は全然違うから

 「パクリ」と「模倣」は同じことですか?
 昨日のブログを読んだ知り合いから、さっそくメールでの質問。

 そういうの自分で考えなさいよ。

 「パクる」は俗語・隠語の類(たぐい)で、犯人を捕まえること、あるいはアイディアなどを盗むこと。
 「模倣」の「模」は「模する」、つまり、似せる、真似るということ。「模擬試験」の「模」だ。「倣」は「倣う(ならう)」で、これもまた、あるものを手本にこれを真似るということ。
 だから、ほら、違うでしょう。
 一方は盗むことで、一方は真似たり、ならったりすることなんだから。

 文章修行の方法として昔からあるのが全文書き写しというやつ。一作丸ごと手書きで書き写す。体験的に言えば、読んだだけでは旨い文章を書けるようにならないが、これをやると効果てきめん。
 これなんかも、一種の「模倣」であるわけだが、その先にあるのは「創作」。「パクリ」はどこまで行っても「パクリ」。

 日常の生活や習慣については、子供が大人をまねることがあっても、通常その逆はないのだが、マーケテイングや企業経営の世界では、大きな者が小さな者をまねたり、強い者が弱い者をまねることがよくある。
 お手本は、上にも下にも横にも、どこにでもあるということだ。

 塾ならば、自分より大きな塾だけではなく、自分より小さい塾にもまねていいことがある。学校ならば、自校より有名で人気のある学校だけでなく、自校より無名で人気の劣る学校にもまねるべき点がある。受験生ならば、自分より成績の良い友達だけでなく、自分より成績の低い友達にもまなぶべき点がある。

 「模倣」を勧めは、手抜きの勧めではない。
 「模倣」という言葉が気に入らなければ、「他者に学ぶ謙虚な姿勢」、あるいは「良いものは貪欲に取り入れる姿勢」などと言いかえればよかろう。

「独創」だけがエライんじゃなく「模倣」も大したものだ

 「学ぶ」と「真似ぶ」は同じ語源と言われているね。
 赤ちゃんのとき、お母さんやお父さんを真似ながら言葉を覚えたところをみると、どうやら模倣することは、われわれの中に遺伝子として組み込まれているようだ。

 ということで、今日のテーマは「模倣」である。

 「模倣」と「独創」はどっちがエライか。
 そりゃ「独創」でしょう。
 というのが大方の答えであろうが、それでは「模倣」が可哀そうなので、今日は「模倣」だって捨てたもんじゃないぞという話をしようと思う。

 先に書いたように、われわれは「模倣」が得意である。「模倣」という能力があったから、何とか人間らしく生きていけるようになったのだ。

 歴史を振り返って見ても、遣隋使・遣唐使の昔から、ずいぶん外国の文化や技術を模倣してきた。鉄砲が伝わるとすぐにコピーしちゃうし、明治になると、あっという間に欧米の科学技術を模倣し自分のものにしてしまった。模倣バンザイ。

 いやしかし、今まではそれで良かったかもしれないが、これからは「独創」だ。独創的な発想、独創的な人間が求められるのだ。
 なるほど、それも一理あるが、私は、あまりに独創、独創とこだわるのも良くないと思っておるぞ。

 というのは、独創的であろうとすると、下手をすると思考が内向きになる危険性があるからだ。外を見なくなるんだ。

 たとえば、学校や塾の経営者が、独創的であろうとする。つまり、それによって他校・他塾との差別化を図ろうとするわけだ。
 それで、模倣してはいけないという意識が強く働くものだから、他校・他塾を見たり研究したりしなくなる。また、他校・他塾が成功しても、その成功を正当に評価できず、できるだけ小さく見てしまう。
 これはもったいない。

 歌や踊りでも「完コピ」は難しいよね。「完コピ」は一つの能力だ。
 「独創」は難しいが、「模倣」も結構難しいのだ。
 広く外を見て、じっくり観察し、それを自分のものにする模倣力を磨こうではないか。

 「独創」というのは、「模倣」と反対方向にあるのではなく、「模倣」のもうちょっと先の方にあるように思う。

アクティブラーニングへの誤解と偏見

 アクティブラーニングについて誤解と偏見がある。
 などと偉そうなことを言うと、そういうお前はどこまで正確に理解しているのかと突っ込まれそうだが、どうぞ突っ込んでいただきたい。

 アクティブラーニングの「アクティブ」は「活動」と訳さず、「能動(的)」と訳すほうが正しい理解を得やすい。「受動(受け身)」の反対の「能動」である。
 「活動」と訳すと、グループ学習や体験学習のようなものがイメージされやすく、それも一つの具体的手法ではあるが、そこに固執すると肝心な部分を見落としてしまう。

 アクティブラーニングを外形的な授業スタイルだけで見てはいけない。
 重要なのは、学ぶ姿勢が、受動的であるか能動的であるかである。
 だから、生徒が教室の中を移動しなくても、話し合いをしなくても、発表しなくても、能動的に授業に参加してさえいればアクティブラーニングは成立する。アクティブラーニングが目指すところは、そこのところである。

 大事なのは、身体を動かしているかどうかではなく、頭(脳)を動かしているかどうかである。能動的の「能」は、「脳」に置き換えることができる。

 探求型アクティブラーニングという手法がある。
 総合学習の時間などを使って行われるのがこの手のアクティブラーニングで、「被選挙権も18歳以下に引き下げるべきかどうか」みたいなテーマについて、調べ、話し合い、発表するというものだ。
 アクティブラーニングに誤解と偏見を持つ人は、もしかしたら、こうした手法に目を奪われ過ぎているかもしれない。

 しかし、こんなことを年がら年中やっている学校はないわけで、各先生が常日頃考えているのは、ふだんの授業をどうアクティブ(能動的)なものにするかである。
 生徒が何となく先生の話を聞き、ただ黒板をノートに写すだけの、ほとんど頭を使わない授業をどう改善するか。
 すなわち、ここで考えられているのは、知識活用型アクティブラーニングというべきものだ。
 知識を深め、定着させ、活用できるようにする。その手法としてアクティブラーニングはある。

 元埼玉県公立高校の教諭であり、アクティブラーニングの実践者、推進者である小林昭文氏の授業は、講義は最短時間で済ませ、あとは演習に取り組ませるというものだ。
 以前直接お話を聞いたことがあるが、私の記憶と理解に間違いがなければ、たしか大学受験のための知識を短期間で習得させる方法を考える中でたどりついた手法であると言われていた。

 埼玉県公立高校が取り組むアクティブラーニングの手法は、「知識構成型ジグゾー法」と呼ばれるものである。「知識」というワードが含まれていることに注意が必要だ。

 アクティブラーニングというと、知識は身に付くのだろうとか、知識をおろそかにしているのではないかと心配する人がいるが、いつの世の中でも、学問・学習はまず知識を身につけることだ。決まってるじゃないか。
 じゃあ、その知識をどうやって深めるか、定着させるか、活用できるようにするかという話になって、そこで初めてアクティブラーニングの出番となるわけである。

 学力が落ちると思ったら、誰がアクティブラーニングなんかやるものか。学校の先生は、そこまで「ノー天気」じゃない。