「きのね」で知る歌舞伎という特殊な世界

 宮尾登美子の小説に「きのね」(新潮文庫・上下)というのがある。
 きのねは、歌舞伎で使われる拍子木の音。

 主人公のモデルとなったのは、11代市川團十郎の妻。
 なお、56歳の若さで亡くなった11代市川團十郎の長男が2013年に66歳で亡くなった12代団十郎で、その長男が今話題の市川海老蔵という関係。海老蔵は行く行く歌舞伎界の大名跡・13代市川團十郎を襲名することになるだろう。
 奥さん(小林麻央さん)を亡くされた矢先に不謹慎と言われるかもしれないが、海老蔵の祖父も父も病に侵され若すぎる死をとげている。その血を受け継ぐ海老蔵であるが、ぜひ長生きしてもらい、歌舞伎界の屋台骨を支えてもらおう。

 さて、小説「きのね」の話であった。
 もう一度読み返そうと思ったが、数千冊の山から発掘するのは困難とあきらめアマゾンで購入。

 主人公・光乃のモデルは11代市川團十郎の妻・千代さんである。他の登場人物も名前はすべて変えてあるが、歌舞伎に精通した人なら、実在の誰と特定できる仕掛け。

 貧しい生い立ちの光乃は縁あって梨園の名門の家に女中として奉公し後に11代の妻となり当代きっての人気役者を陰で支えつつ幸せな家庭を築いていく物語。
 というと、ただの出世物語にしか聞こえないが、家柄、伝統が重んじられ因習うずまく特殊な芸事の世界で名もなき女性が生き抜くさまは読んでいて気が重くなり何度も投げ出したくなったほどだ。

 決して華やかさだけではない梨園の妻となった小林麻央さんにも人知れぬ苦労があったものと思われる。
 謹んでご冥福を祈る。

「90歳。何がめでたい」、その気持ち少し分かる

 佐藤愛子著「90歳。何がめでたい」(小学館:1200円)を読んだ。68万部突破のベストセラーということだ。

 佐藤愛子は半世紀前の直木賞受賞作家だ。正確には1969年上期の受賞。
 同じとき、庄司薫が「赤頭巾ちゃん気をつけて」で芥川賞を受賞しており、高校3年生だった私の興味はそっちに向いていた。同級生の誰だったかが、受賞作の載った文芸春秋を買ってきて、「これ、面白いぞ」というので、借りて読んだ記憶がある。
 というわけで当時は、佐藤愛子? 知らんな。

 佐藤愛子は大正12年生まれというから、昨年死んだ14年生まれのわが母と同世代だ。そんな「お婆ちゃん」が、いまだ現役作家とは驚きだ。
 私は90歳まで生きないと思うが、仮に生きながらえたとして、今から25年後、人が読むに堪える文章を書けるかどうか。今だって相当に怪しいのであるから、絶対に無理だ。

 本書は、女性週刊誌に連載されたエッセイをまとめたものである。
 筆者は、テレビ番組や新聞や、日常のさまざまなことに怒りをぶちまけている。いちいち、昔はこうだったと言われると、若い人はイラっとくるかもしれないが、私などはザックリ言えば、「年寄り」という同じカテゴリーに属しているので共感できる部分が多い。本書がベストセラーになったのは、そういう世代の支持があったためだろう。

 筆者の父(佐藤紅緑)は著名な作家で、いわばお嬢様育ちと言っていいが、その後の人生は波乱万丈だ。直木賞受賞作「戦いすんで日が暮れて」も、夫の倒産による大借金の返済に奔走する自らの姿を描いたものだ。
 しかし、どんな逆境にあっても、明るくたくましく生き抜いてきた著者の生き様は、痛快でもあるし、悩める人々に勇気を与えるかもしれない。

 最近、ただぼんやり生きるだけで、本来悩むべきはずのことも、無気力にやり過ごしてしまう私は、ちょっとばかり喝を入れられた気分だ。

「学びのサプリ」を「うなずき」ながら読む

 開智未来中学高校の塾説明会に出席。
 昨日も別の用事で行っているので2日連続だ。

 埼玉県民の感覚、と言うより私の感覚では、利根川を渡った向こう側は栃木県や茨城県なのだが、埼玉県加須市の一部は、利根川の向こう側にもあるのだ。
 たまに行くと、はてしなく遠いところに来た気分になるが、回を重ねると、そうでもないと思えてくる。が、やっぱり浦和からだと遠いかな。

 校長の関根均先生は、元は県立高校の校長だ。
 県立の校長から私立の校長へというパターンはよくあることだが、普通は県立を定年退職してからだ。しかし、関根校長は、県立を途中でやめて私立に転じた。異色の経歴だ。

 異色で思い出したが、私が初めて関根校長に会ったのは、関根先生が開智の校長になった直後のことで、たしかそのときに、「最初の職員会議のとき、先生方に、生徒には毎日腹筋と腕立てをやらせてほしい」とお願いしたという話を聞いた。
 実行されたかどうか定かではないが、いきなり身体づくりの話をするとは面白い人だと思った。

 で、ここからが本題なのだが、今日の説明会で、関根校長の著書「学びのサプリ~きっと偏差値が10上がる“希望”の学習法」(学事出版)をいただいた。
 帰って来てさっそく読んだ。
 私の場合、本を後で読むという習慣はなく、手にした瞬間に読む。

 第1章目。「サプリ体操」。
 なるほど、そこから入って来たか。分かるな。
 さらに読み進むと、第4章目に「学びの身体論」というのが出てきた。ますます分かるな。
 初対面のときの記憶に間違いはなかった。やはり関根校長は、脳のはたらきは、身体や心の動きと密接に関連しているという信念をずっと持っていたんだ。

 「学びのサプリ」は、その実践を綴った本なのだが、私はいちいち「うなずき」つつ読んだ。以前に、関根校長の講演を聞いたとき、人の話は「うなずき」ながら聞くものだと言われたので、それを実行してみたのだ。

 この本は、成績を上げたい中高生に読んでもらいたいが、お父さんやお母さん、それに学校や塾の先生にもおすすめだ。なんなら伸び悩んでいるサラリーマンが読んでもいいかもしれない。

 「学びのサプリ」

40年前の大手塾では、何をどう教えていたか

 佐藤優「先生と私」 (幻冬舎文庫・650円+税)

 佐藤優(さとう・まさる)氏は、元外交官で、現在は作家・評論家として活躍している。氏の言説には、賛成しかねる点も多いのだが、作家がどんな思想を持ち、どんな発言をしようと自由だ。
 気に入らなきゃ、読んだり、見たり聞いたりしなければいいだけの話だ。

 佐藤氏は県立浦和高校の出身である。調べてみたら、私より8年下だった。
 私は、教育実習を母校の浦高でやっていて、その時の3年生という計算になるから、どこかにいたということだ。まあ、どうでもいいが。

 佐藤氏の著作では、「国家の罠~外務省のラスプーチンと呼ばれて~」(新潮文庫)を読んだことがある。「獄中記」(岩波現代文庫)も読んだはずだが、内容はよく覚えていない。

 「先生と私」を読んだのは、パラパラとページをめくってみたら、植竹中学校とか、浦高・一女とか、山田義塾とか、よく知る名前が結構登場していたからだ。

 山田義塾というのは、大手塾チェーンの走りのような会社で、創業は1966年と栄光ゼミナールやスクール21などよりずっと古く、一時は首都圏に50教室以上を展開し、塾生も2万数千名を数えたというが、内紛が相次いだこともあり、いまは存在しない。

 本書では、その山田義塾の先生と、佐藤少年との交流が、仔細に描かれているが、これが、今ではちょっと想像できないくらい濃密であり、指導内容も高校受験塾とは思えないほど高度なものなのだ。

 たとえば、塾の先生が授業中にこんな説明をする。
 「文章は、内容を変えずに、伸ばしたり、縮めたりすることができる。短くすることを要約といい、長くする方を敷衍という。要約は、少し訓練を積めば、誰にでもできるようになるが、敷衍は難しい。いろいろな背景知識や、比較する他の文学の例を知らないとできません。高校入試問題でも『要約せよ』という問題はたくさん出るけれども、『敷衍せよ』という問題は出ない。しかし、大学生になったり、社会に出てから、物事を敷衍する力はとても重要になります」(本書73頁:第三章山田義塾より)

 本ブログの読者の中には、塾の先生もおられると思うが、塾産業の黎明期である1970年代後半から1980年代初頭の塾とはどんなものだったかを知るには、絶好のテキストになるかもしれない。
 もちろん、佐藤少年は少し変わった子だったようなので、その点を割り引きながら読まなくてはいけないが、「塾とは何なのか」ということを、改めて考えさせられた一冊であった。

勝者が誰もいない「いじめ自殺」裁判の顛末

 昨夜は、熊本地震のことで暗い気持ちになっているところへ、さらに重たい気分になる本を読んでしまった。

 福田ますみ「モンスターマザー」(新潮社:1400円+税)
 「長野・丸子実業『いじめ自殺事件』教師たちの闘い」 というサブタイトルがついている。

 これは小説(フィクション)ではなく、実際に起きた事件を題材としたルポルタージュである。
 ノンフィクションであるから、教師や生徒は仮名だが、県議・弁護士など実名で登場する人物も多い。

 2005年、長野県丸子実業高校(現・丸子修学館高校)バレーボール部の男子生徒が自宅で自殺した。
 部内でのイジメを苦にした自殺とされ、「丸子実業バレー部員イジメ自殺事件」としてマスコミでも大きく取り上げられたので、ご存知の方も多いだろう。
 事件の概要や、本書の内容については、ネットで検索すれば山ほど出てくるので、興味がある方は、ご自身で調べていただきたい。

 私はなぜ重たい気分になったか。
 それは、一つの小さな事件、もちろん少年が一人亡くなっているのだから、その意味では決して小さくはないのだが、もしかしたら命が救われ、多くの人が深い傷を負わなくても済んだ事件が、結果的には、関わった人すべてを不幸にしてしまうという、後味の悪い結末になっているからだ。

 まず、新聞やテレビが取り上げるが、悪いのは先生や学校や教育委員会であるという形でしか報道しない。真相を究明するよりも、悪者を叩くことに主眼がおかれる。
 それを見たり読んだりした人々が、ネットを通じて、悪者成敗に参加する。
 さらに、県会議員やら弁護士らが、弱者の味方として現れ、加勢する。

 このパターン。イジメ問題に限らず、今も繰り返し行われている。

 しかし、この事件では、加害者とされた生徒・保護者や先生・学校が反撃に出る。
 殺人罪で告訴された校長ら学校側が、生徒の母親を逆告訴し、さらには、担当弁護士までも告訴する。

 結果は、8年にも及ぶ長い歳月をかけ、ほぼ学校側の全面勝訴に終わるのだが、とてもじゃないが「ああ、よかった」という晴ればれした気分にはなれない。

 生徒を一人失ったのだ。加害者とされ裁判で被告席に座らせ、生徒に深い傷を負わせてしまったのだ。
 だから、裁判に勝ったと言っても、自分たちが勝者だと思っている先生は、一人もいないだろう。
 本書は、そういう不幸な事件の顛末を描いた力作だ。