「忖度」しながら生きるしかない

 久しぶりに「忖度(そんたく)」という言葉を聞いた。
 一連の森友騒動の中で出てきた、「相手の気持ちを推し量る」という意味の言葉だ。

 「度」を「たく」と読むのは、寿司屋とか蕎麦屋で午前中や午後のいっとき、「支度中(したくちゅう)」という札がぶらさがっていたりしてお馴染みだ。温度や湿度の「度」だから、「はかる」という意味があるのだろう。

 「忖」の方は普段使わないな。
 「寸」は「寸法」の「寸」だから、「(長さを)はかる」ことだろう。部首は「こころ」だから、「心の(長さ)をはかる」という意味でいいだろう。

 私の理解では、「忖度」自体は、良い意味でも悪い意味でもなく、また、する方とされる方の間に上下関係など特にないのだが、マスコミから流れてくる「忖度」は、主に、身分や立場が下の者が、上の人の気持ちをおしはかることであり、あまり良い意味では使われていないようである。
 
 「忖度」はきわめて日本的なもので、「忖度文化」などという言い方もあるようだ。
 世の中には、日本的なものはすべて良くないものと否定する人々がいる。「日本的=ナショナリズム=軍国主義」みたいな形で、極端に短い回路で思考がつながってしまう人々だ。   
 また、それとはやや異なり、「グローバリズム」の立場から、「日本(人)的な思考」を否定する人々もいる。世界で通用しないというわけだ。

 なるほど。
 では、世界で通用する考え方とはどういうものなのか。
 たしかに、民族や国籍が異なる人々が集まる企業や組織で、日本人上司の意向を、部下である外国人が「忖度」してくれる姿は想像しにくいし、逆に、日本人部下が、外国人の上司の意向を「忖度」して行動したら、何を黙って勝手なことをしているんだと怒られそうだ。

 しかし、だからと言って、「日本(人)的な思考」や「日本人的な行動」、「日本的な文化」を捨てるべきだということにはならない。
 世界で通用する考え方というものが、実際にあるのかどうか。また、あったとして、それがどういう考え方なのかよく分からないが、「日本(人)的な思考」を捨て去れば、自動的に身に付くというものでもないだろう。

 日本人的な「忖度」は外国人に通じないという経験は、多少なりとも持っている私であるが、これからも日常生活においては周囲の意向を「忖度」しながら生きて行くことになるだろう。

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