「独創」だけがエライんじゃなく「模倣」も大したものだ

 「学ぶ」と「真似ぶ」は同じ語源と言われているね。
 赤ちゃんのとき、お母さんやお父さんを真似ながら言葉を覚えたところをみると、どうやら模倣することは、われわれの中に遺伝子として組み込まれているようだ。

 ということで、今日のテーマは「模倣」である。

 「模倣」と「独創」はどっちがエライか。
 そりゃ「独創」でしょう。
 というのが大方の答えであろうが、それでは「模倣」が可哀そうなので、今日は「模倣」だって捨てたもんじゃないぞという話をしようと思う。

 先に書いたように、われわれは「模倣」が得意である。「模倣」という能力があったから、何とか人間らしく生きていけるようになったのだ。

 歴史を振り返って見ても、遣隋使・遣唐使の昔から、ずいぶん外国の文化や技術を模倣してきた。鉄砲が伝わるとすぐにコピーしちゃうし、明治になると、あっという間に欧米の科学技術を模倣し自分のものにしてしまった。模倣バンザイ。

 いやしかし、今まではそれで良かったかもしれないが、これからは「独創」だ。独創的な発想、独創的な人間が求められるのだ。
 なるほど、それも一理あるが、私は、あまりに独創、独創とこだわるのも良くないと思っておるぞ。

 というのは、独創的であろうとすると、下手をすると思考が内向きになる危険性があるからだ。外を見なくなるんだ。

 たとえば、学校や塾の経営者が、独創的であろうとする。つまり、それによって他校・他塾との差別化を図ろうとするわけだ。
 それで、模倣してはいけないという意識が強く働くものだから、他校・他塾を見たり研究したりしなくなる。また、他校・他塾が成功しても、その成功を正当に評価できず、できるだけ小さく見てしまう。
 これはもったいない。

 歌や踊りでも「完コピ」は難しいよね。「完コピ」は一つの能力だ。
 「独創」は難しいが、「模倣」も結構難しいのだ。
 広く外を見て、じっくり観察し、それを自分のものにする模倣力を磨こうではないか。

 「独創」というのは、「模倣」と反対方向にあるのではなく、「模倣」のもうちょっと先の方にあるように思う。

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