「頭の良い人」の基準が中高生のままの人

 世の中には「頭の良い人」と「頭の悪い人」がいる(はずだ)。
 しかし、「頭の悪い人」は、頭が悪い故に自分が馬鹿なことに気づかないため、世の中は、主観的には「頭の良い人」ばかりとなる。

 私も自分自身を「頭の良い人」に分類しているが、他人は私のことを「頭の悪い人」に分類しているかもしれない。知らぬは本人ばかりなり。ああ、恐ろしい。

 中高生の段階では「頭の良い人」は、「成績の良い人」であり、「テストができる人」であり、「偏差値の高い人」である。
 だが、大人になると少し事情が違ってくる。

 大人には模擬試験もなければ通知表もないので、「頭の良い人」の基準を数字に求めることができなくなってくる。そこが中高生との違いだ。
 そもそも、大人の社会では中高生的な意味での「頭の良い人」は重用されない。もちろんそのような意味合いでの「頭の良い人」も一つの能力なのだが、それだけだと「あの人、頭はいいんだけどねえ…」と言われるのがオチだ。

 中高生的な意味での「頭の良い人」は、基本的に知識のインプット量で決まる。たくさん覚えたやつが勝ち。
 大人の社会で「頭の良い人」は、その良い頭を使える人である。インプットされたものをどう組み合わせてアウトプットできるかが勝負だ。
 これを今風に言えば、「思考力・判断力・表現力」ということになる。

 今や高校入試でも大学入試でも、躍起になってこれらを測ろうとしているが、ペーパー試験ではおのずから限界がある。
 だから無駄な努力、と言うつもりはさらさらないが、「思考力・判断力・表現力」は数値化できない能力だということを、みんなが認めるべきだ。いや、みんなが認めなくてもいい。せめて親や先生だけはそこを認めてやろう。

 数字で表されるものだけが能力であるという教育をすると、いつまでも学歴・出身校を誇るやつが出てくる。かれらは、実は、「頭の良い人」の基準が、中高生のままの未熟な人間なのである。
 良い学校を目指させるのは結構だが、「テメエ、その程度でいい気になってんじゃねえぞ」と一発かましてやらないと、本人とためにも世の中のためにもならない。

コメント

コメントの投稿