成績は高めにつけたほうが後々いいことありそうだ

 学校の先生の仕事には、評価をつけるというのがある。通信簿の成績だ。
 高校は昔から絶対評価である。5や4をつける割合は決まっていない。

 私は最初、どうやってつけるか分からなかった。評価の付け方なんて大学で習ってないし、新任教員の研修にもなかった。仕方ないから先輩教員に教わって見よう見まねでつけた。昔の教員なんて、そんなもんだ。

 そのうち、だんだんと自分なりのつけ方が分かってきた。
 若いころの私は何かと生徒には厳しい教員だったと思う。いや、厳しいを通り越して恐ろしい教員だったかもしれない。
 だが、意外や意外、評価は優しい。クラスの半分以上は5か4だ。1はいわゆる赤点で進級・卒業にも関わるから原則としてつけない。2もほとんどつけない。当時は45人学級だったが、40人学級に換算すると、5が8人、4が12人、3が20人、それ以下なしというようなつけ方だ。
 
 迷ったらワンランク上。
 私の場合、実技教科ではないので、ほとんど定期考査の点数でつけるのだが、微妙なラインに乗ってくる生徒がいる。さて、こいつは4かな5かな。点数的には足りないんだが。というようなときは、「えーい面倒だ、5にしてやろうじゃないか」と、上の評価をつける。

 終業式の日、生徒は通信簿を開けてみてビックリ。「おいおい、世界史5取れちゃってるよ。絶対無理だと思ってたのに」。

 どうだ、嬉しいだろう。でもまだオマエはオレの仕掛けに気づいていない。

 次の学期。
 予想外の5を手にした生徒はどうするか。せっかくもらった5を守りたいと思う。勉強がんばる。文句なし5の点数を取る。
 むろん、そうならないケースもある。この程度で5を取れるのかと手抜きをしてくる生徒だっている。その時は容赦なく下の評価だ。オマケが2回続くと思うなよ。

 しかし経験上、ほとんどの生徒は、良い成績をつけた方が、もっとがんばるようになる。

 数十年後のクラス会。
 「俺、日本史は結構得意だったから、今でも歴史の本はものすごく読むんですよね。その影響もあるみたいで娘も好きなんですよ」。
 しまった。クスリが効きすぎてしまった。子どもにまで影響しちまったか。
 しかし、今さらオマエが日本史得意なのは錯覚だとは言えんしな。

 2学期末である。
 評価ひとつが目の前の入試にも影響するし、もしかしたらその後の人生に影響を及ぼすかもしれない。
 評価される側からは、一言も二言も言いたいことはあるだろうが、評価する側の先生たちだって、いろんなことを考え、悩みながら成績をつけているのだ。

面談は先生も疲労困憊、健康に注意して

 高校受験生は、志望校決定のシーズンだが、生徒の中には、決められる子と決められない子がいる。

 私の場合は高校教員だったので、大学受験の話になるが、自分から相談に来る子は割と楽だ。「迷ってるんです」という言葉とは裏腹に、実は自分の中ではほとんど決まっている。ただ、ちょっとだけ不安が残っている。だから、「大丈夫。それでいいと思うよ」と、ポンと背中を一押ししてやるだけでいい。

 ところが、教員なりたての頃は、「迷っているんです」を真に受け、余計な情報を吹き込んで、せっかくの決心に水を差してしまったこともある。この子本当はどうしたいんだろうということに思いが至らなかったんだね。バカみたい。

 生徒の決定を尊重する。
 いかにも生徒思いに聞こえるが、決定がもたらすその後の人生にまで責任は持てないわけだから、自身で決めてもらうしかない。
 だが、明らかに「その決定は違うんじゃないの」とか、「その決め方おかしくないかい」という場合もある。

 「どう考えたって無謀な挑戦だ。受験料無駄にすんじゃない」
 「もうワンランク、いやツーランク上げたって合格するぞ」
 「そこじゃスベリ止めにならんぞ。滑って転んで骨折って、それでも受かるのがスベリ止めだ」
 「そこ出て就職どうすんのよ」
 いずれも言った覚えのある科白だ。

 だが、こう言ってしまったら、生徒も引くに引けないから、ああでもないこうでもないと自分の正当性を言い募る。意固地になる。
相談決裂。

 年数を経ると、こっちのやり方も巧妙になる。
 初っ端から「そりゃ、まずいよ」ではなく、まず「なるほど。いいんじゃないの」と出る。「受容」という相談の基本技だ。
 それにしても、生徒の矛盾に満ちた、底の浅い、近視眼的な話を我慢して聞けるようになるまでに、どれだけの年月を要しただろう。

 よくよく考えてみれば、戦いの場は目指す学校の入試であり、真の戦いの相手は他の受験生だ。生徒と親と先生は、敵同士ではなく味方同士だ。それが本番前に揉めているようでは勝ち目がない。

 学校や塾の先生は、これからも面談・相談が続くと思う。
 面談・相談から受ける精神的・肉体的ダメージは、経験のない人には分からんだろうな。授業の方がよっぽど楽だ。

 ということで、師も忙しく走り回る「師走」を迎えて、先生方にはくれぐれも健康に留意し、ますます頑張っていただきたいという応援メッセージであった。


追伸:ブログデザインをクリスマスバージョンに変更しておいた(PC版のみ)。

学級は大人数でも、学習が少人数であれば

 今さらながら少人数教育について語ろうと思うのだが、まず私の頭の中では、「少人数学級」と「少人数教育(指導)」は、はっきりと区別されているのだということを断っておこう。もちろん私だけの勝手な区別だが。

 学級(クラス)には二つの側面があると考えられる。一つは学習集団としての側面であり、もう一つは生活集団としての側面である。

 学校は勉強ばかりしている場所ではない。生徒にとって一日の大半を過ごす生活の場でもある。
 毎日弁当を喰ったり、文化祭に参加したり、体育祭や球技大会を戦ったり、修学旅行を楽しんだりといった勉強以外の活動では、ふつうは学級(クラス)が単位となる。

 そう考えると、人数が少なければ少ないほどいいとは言えず、むしろ、ある程度人数がいたほうが面白くて楽しい。
 ということで、生活集団としての学級(クラス)に関しては、少人数を目指すべき積極的な理由は、私には見いだせない。

 一方、学習集団としての学級(クラス)に目を向けた場合は、それなりに効果が期待できそうだ。
 ちなみに、私が現役高校教員だった時代は生徒急増期だったこともあり、1クラス45人が普通だった。つまり私は、10人、20人という少人数指導は経験したことがないのである。

 想像するに、45人が40人や35人になったところで、それほど成果は期待できそうもないが、半分の20人以下になれば、それなりの効果は期待できそうだ。もちろん、個々の生徒の学力や学習意欲、それに、教える側(先生)の少人数指導に対する熟練度、さらには教科の特性なども問題になるのだが、いずれにしても、学習集団というところに目を向けた場合、少人数は効果ありとしておこう。

 生活集団としての学級(クラス)は大人数で、学習集団としての学級(クラス)は少人数でということが可能なら、私はこの方法を選びたい。
 あとは、習熟度別をやるにしても、TT(ティームティーチング)やるにしても、教室数という物理的な制約と、人件費という経済的な制約をどう乗り越えるかである。

相撲界は旧いが、それがまたいいところなのだ

 日馬富士、暴力事件の責任をとって現役引退。
 日ごろ暴力を仕事にしている人たちなのにね。

 張り手も頭突きもけたぐりも土俵上だけで許されるもので、土俵外でそれをやってはいけないのは当たり前のことで、「とにかく、どんな理由があろうが暴力はいけない」などと、クソみたいなコメントを出している連中を見ると、張り手の一発も見舞ってやりたくなる。

 相撲界はどう考えても特殊な世界である。
 スポーツではあるが、伝統芸能みたいなところもある。古くからのしきたりがたくさんあって、現代社会の常識から見たら不思議なことがいっぱいある。

 もしも大相撲がサッカーや野球やゴルフみたいになったら、どうなるか。

 まず場所名に冠スポンサーをつけよう。「トヨタカップ名古屋場所」、「博多明太子ふくや九州場所」みたいに。
 会場にも企業名を入れよう。「永谷園両国国技館」ってところか。
 あと、部屋の名前にスポンサー企業名が入ってもいいかもしれない。「三菱UFJ高砂部屋」とか。

 化粧まわしには、今でも寄付者の名前が入っているようだが、取り組みのまわしにもスポンサーのステッカーをベタベタ貼っていいことにしよう。
 本当は、土俵上でサポーターなどをつけるのはいけないとされているが、これを認めて「バンテリン」とか「ボルタレン」とか「サロンパス」を堂々と貼っていいことにしよう。「今場所の稀勢の里はサポーターを『バンテリン』から『サロンパス』に変えて調子がいいみたいですね」なんて解説が入ったりする。

 このように今やどの競技でも当たり前になったシステムが導入されていないが、これが良くも悪くも相撲界なのである。

 相撲界を批判する人が、よく「諸外国では」とか「一般企業(一般社会)」というフレーズを用いるが、それと比較しちゃダメでしょう。土俵に塩を撒くのを「食べ物を粗末にしている」なんて言われてもね。

 相撲をオリンピック種目にでもしようというなら別だが、私は日本にしかない競技でいいと思っているから、無理やり世間の常識を当てはめることには反対だ。もちろん、法を犯してはいけない。しかし、そうでないならば、古くからのしきたりも含めて大相撲なのであるから、そこはむしろしっかり守ってほしい。

疑問を持ち続けられるのは一つの能力だ

 疑問を疑問のまま持ち続けられるかどうか。

 中学生諸君、キミらは分からないとか解けないとかいう問題にぶち当たることがあるだろう。
 そんな時、うんうん唸りながら、その場で解決したい。そう思うのは正しい。粘りに粘って答えにたどり着こうとする。いいことだ。

 しかし、それでも分からない、解けないときはどうするか。
 その場はあきらめる。
 まあ、いいだろう。そればかりやっているわけにも行かない。

 さて、重要なのはここから先だ。
 出来る子は、分からない、解けないのまま、頭の中に保存する。どうやら、そういう場所が脳内にあるようだ。いつか分かってやるぞ、いつか解いてやるぞの意志と共に保存する。だから、頭の中がいつも疑問でいっぱいだ。何かスッキリしない気分だが、それに耐えることができる。
 一方、出来ない子は、その場はあきらめるまでは一緒だが、保存をしない。きれいさっぱり忘れる。

 勉強というのは面白いもので、その時はどうにも理解不能であっても、時を変え、場所を変えて考え直してみると、突如分かったりすることがある。また、別の知識が加わると、その知識の力を借りて、解けてしまったりもする。
 「目から鱗が落ちる」という言葉があるが、ある日突然、疑問が解けることがあるのだ。その時まで、脳内に保存し、時々出して考えてみては、また再保存する。

 その場で何だって解決できれば、それに越したことはないが、難問であればあるほど、すぐには答えが出ない。
 その場合は、分からない、解けないのまま脳内保存する。この保存スペースは広ければ広いほどいい。

 分かんないとイライラするだろう。解けないと悔しいだろう。
 でも、そういう感情と共に、とりあえず疑問を疑問のままとして頭の中に保存できるかどうかは一つの能力と言えるかもしれないね。

「死ね」が溢れる世の中で、「命の大切さ」を教えろってか

 ふざけんなよ。
 そう思うのは、「死ね」の濫用のことだ。

 「保育園落ちた、日本死ね」。こんなのを国会で声高に叫ぶ議員がいた。流行語大賞の候補にも選ばれた。
 つい最近は、日本維新の会・足立康史議員が「朝日新聞、死ね」とやった。(後日、足立議員は「万死に値する」と訂正したようである)
 「安倍に言いたい。 お前は人間じゃない! たたき斬ってやる!」(山口二郎氏)なんていうのもあった。

 保育園の件にしろ、朝日新聞の件にしろ、言いたいことは分かる。主義主張に同調するかどうかは別として、それぞれに背景や経緯があることは理解できるということだ。
 しかし、言うに事欠いて、いい大人達が「死ね」とは何事だ。

 子供たちは、確実に真似するぞ。いや、もうとっくに真似している。

 で、何だって? 学校で「命の大切さ」を教えろだと。
 大人同士が、「オマエは死ね」、「そっちこそ死ね」と罵り合っていて、子供には、「滅多なことで、『死ね』なんて言葉を使ってはダメよ」と教えろっていうのか。冗談言っちゃいけないよ。オマエラが先に改めろって話だ。

 教養ある大人たちなら、「死ね」だの「殺す」だの用いずとも、いくらでも表現を持っているだろう。
 子供たちが言葉として「死ね」、「殺せ」を使ったからといって、ただちにそれを実行に移すというものではないが、日常的に軽々と使わせていいとは思わない。

 論戦結構。批判結構。
 でも、言葉は選べよ。
 「オマエもな」
 そう、私もだ。

埼玉初の中等教育学校は「大宮国際」に

 さいたま市に中等教育学校ができる(平成31年4月開校)。
 さいたま市には、市立浦和、浦和南、大宮北、大宮西と4校の市立高校があったが、このうち大宮西高校を閉校にして、新たに中等教育学校を作る。

 昨日の埼玉新聞に、名称が「大宮国際中等教育学校」になると出ていた。国際バカロレアの認定校を目指すとも。

 東京には小石川など5つの都立中等教育学校と千代田区立九段、合わせて6校ある。
 埼玉では公私含め初の中等教育学校である。

 中等教育学校の「中等」が分かりにくいが、わが国では、小学校を「初等教育」、中学・高校を「中等教育」、大学を「高等教育」と位置付けている。
 よって、中等教育学校は、中学校と高校を併せた学校ということになる。

 なんだ、中高一貫と変わらないじゃないか。
 そう、ほとんど変わらない。
 
 ただ、中高一貫校の場合、高校入学時に外部からの生徒を新たに受け入れることが多いが、中等教育学校は6年制の学校であり、高校入試というのは無い。私立の中に「完全中高一貫」と呼ばれ、高校入試を行わない学校があるが、それと同じような形だ。

 中等教育学校は、文部科学省が推進している新しいスタイルの学校なので、公立が多い。現在、全国で30数校の国公立中等教育学校があるが、私立はその半分くらいだ。私立の多くは、すでに中高一貫を実施しており、今さら中等教育学校になる積極的な理由がないということだろう。

 新しくできる大宮国際中等教育学校の入試はどうなるかだが、規則で学力検査は実施できないので、「適性検査」という名の事実上の学力検査と、面接その他の組み合わせになるだろう。
 同じさいたま市内の中高一貫校「市立浦和」が「適性検査」を実施しているので、それを踏襲するのが自然な流れだ。
 県立の中高一貫校である伊奈学園中学校は、「適性検査」を行わず「作文」中心の選考なので、私立中受験者の併願先にはならないが、事実上の学力検査を行うということなら、市立浦和がそうであるように、私立中受験者の併願校になる可能性はある。

 以上、埼玉県内初の中等教育学校についての話であった。

ニュースが事件を作る、これはまずい

 熊本市議・緒方夕佳議員(42)が、生後7か月の長男を連れて登院し、子連れでの議会出席を試みるも、議会規則により認められなかったというニュース。
 まあ、当然だね。

 ワイドショーなどでも取り上げられていたし、YouTubeにも動画が公開されている。
 映像を見て、私が、「ふ~ん、やっぱりな」と思ったのは、登院風景からテレビカメラが回っていたことだ。JNNニュース(TBS)だ。

 スタッフから「今日は赤ちゃんも一緒ですか?」という声がかかり、議員は「はい、そうでーす」と答えている。そして、カメラは議場まで入り、議長らが説得する姿や、議員の表情などを映し出す。最後は、子連れ出席がかなわず、議員の友人が赤ちゃんを連れだす様子を追う。
 台本どおりだ。

 よほどのことがないかぎり、一地方議会に全国ネットのテレビカメラが入ることはあるまい。
 こういうのを「やらせ」と言うのかな。カメラアングル決まり過ぎ。
 事件がニュースになるのではなく、ニュースが事件を作る。これはまずい。

 議員が子連れで議会に出席したところで何の問題解決にもならない。
 そもそも議員というのは、働く女性のための法や制度を整備し、必要に応じて予算をつけるのが仕事だろう。

 私の想像するところでは、こういった行動を支持する女性は少ない。職場に子ども連れて行くことなんぞ望んでいない。欲しているのは、安心して仕事に臨める環境だ。
 議員なんだから、そっちをまず考えてね。そんなところだろう。

坂本龍馬は教科書から消えない

 歴史の教科書から坂本龍馬が消える?
 一部ではそれなりに話題になっているようだ。

 11月14日の朝日新聞によると、「高大連携歴史教育研究会」という大学や高校の先生らで作る民間団体が、高校の授業が暗記中心になっているので入試で問う知識を半分ぐらいにすべきだと提言したということだ。
 教科書本文で扱わなくてもいい候補に坂本龍馬、武田信玄、上杉謙信、吉田松陰といったお馴染みの人物が含まれていたので反響が大きかったようだ。

 まず朝日新聞の記事という点、テレビではテレビ朝日の報道という点が要注意だ。しかも歴史問題だから余計に警戒しなければならない。

 「高大連携歴史教育研究会」。
 初めて聞く名前だ。
 一応、ネットで調べてみた。
 会長が油井大三郎氏、副会長に磯谷正行氏、勝山元照氏、君島和彦氏、小浜正子氏、桃木至朗氏。
 君島和彦氏については、家永教科書裁判における原告側の主要メンバー、元所沢高校PTA会長という情報が見つかった。
 他の人物についてもサラッと当たってみたが、その思想、主義主張は、どうやら私とは対極にあるようだ。そうか、そっちの方の人たちなのか。だったら、朝日新聞が積極的に取り上げる理由も分かるような気がする。

 「歴史教科書から坂本龍馬が消える?」。
 なるほど、「消える」と断定はしていない。そうだろう。一民間団体の提言なんだから。ただ、何となく興味をそそられる見出しではある。
 だが、教科書を作っているのは教科書出版会社であり、その元になる学習指導要領は文部科学省が定めているのだから、「こういう意見を言っている団体がありますよ」という程度の話でしかない。

 この団体は何らかの意図をもって、こうした情報を発信していると思うが、それはそれでいい。思想信条、表現は自由だ。

 でも、報道の仕方としてはどうなんだろう。そこはちょっと疑問が残る。
 それと、入試のために細かい人物をこれでもかと教えなくてはならない歴史の授業はうんざりだから、その部分については同感だ。

 なお、参考のために記しておくが、学習指導要領には、この時代はこの人物を教えなさいというような具体的なことは書かれていない。

公立入試改革は私立含めた全体の中で考えるべきだ

 千葉県公立高校入試が3年後、現在の前期・後期制から1回入試に変更されそうだ。
 首都圏ではすでに埼玉と神奈川が1回入試となっているが、全国的に見れば、1回入試はまだ少数派だ。

 2回か1回か。
 それぞれ長所短所があるが、2回にこだわるなら1回目と2回目の選抜方法をガラリと変えるべきだろう。1回目は面接や実技検査のみで学力検査なし。2回目は学力検査のみで調査書も関係なし。
 ほとんど同じような選抜方法で2回やっても、合格者の顔ぶれは変わらない。だったら1回で十分ということになる。

 1回にすれば、入試期間が短縮されることで受験生の負担は減り、高校側の入試業務も軽減される。中高共に3学期の授業時間を確保できる。ただし、学力検査中心の入試になりやすい。

 生徒の多様な能力を評価しようということで、面接をやり、実技をやり、作文や小論文をやり、ディスカッションをやる。知識中心の学力検査一本鎗より良さそうだが、裏を返せば、対策をとるべき事柄が多くなり、生徒の負担が増えるということでもある。

 私は以前から学力試験一発勝負と言っている。
 完璧な方式とは思っていないが、受験生の側も、高校側も、こっちの方が負担は軽くなる。
 チャンスが1回という点に不安は残るが、私立の併願と合わせれば2回以上になる。以前は公立を落ちると、学費の高い私立に行かなければならなかったが、流れとしては私立無償化の方向に進んでいる。

 今後は、公立高校側も、自分たちの入試だけ考えるのではなく、私立も含めた全体の入試シーンの中で、公立入試どうあるべきかを考えたほうがいいだろう。
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プロフィール

梅野弘之

Author:梅野弘之
受験生・保護者の皆さん、学校や塾の先生方に最新情報をお届けします。ただし、結構頻繁に受験と無関係の話も。

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