人を育てるとは根気のいる仕事だ

 昨日のフェアで出会った中1男子のご両親。
 中3向けの個別相談を中心としたフェアに中1のご両親が来ているとは。
 そこで、リクエストにお応えして即席の進路相談。

 「息子は勉強のやり方が分かっていないみたいで…」
 そう、分かってない。
 でも、お父さんお母さん、結果を急がないことにしましょうよ。まだ中学校に入って半年しか経ってない。勉強のやり方なんて、そんな簡単に確立するもんじゃないと思いますよ。これから、ああでもないこうでもないといろいろ試してみて、それで、ああなるほど、これがいいやという答えを自分自身で見つける。
 大事なのは、自分の力で見つけること。焦らず、後押ししましょうね。

 「塾に行ったほうがいいですか。どんな塾に行かせたらいいですか」
 個人指導か集団指導か。大手塾か個人塾か。
 それぞれの良さがありますからね。大事なのは息子さんの性格や学力にピッタリはまるかどうかですよ。
 どこの塾でも体験入塾みたいなことをやっているので、お試しで行ってみたらどうですか。世間の評判とか、他人の評価に惑わされてはいけません。所詮は、自分にとって良かったとか、自分にとって良くなかったという個人的体験談ですから。

 ただ、これも本人の意志ですね。
 行かないと言っているなら、じゃあ自分で頑張ってみれば。行きたいと言ったら、じゃあ試してみれば。行ってみてやっぱりやめたいと言ったら、それもいいんじゃない。

 子ども任せとは違いますよ。放任はいけない。なんでも好き勝手決めていいというのとは違う。
 親は子供を育てる責任があるから、意見は言ってください。話し合いはしてください。

 ざっと、こんな話。

 自分で情報を集めたり、人の意見に耳を傾けたりができるような人間に育てなくてはならない。
 その上で、自分で考え、意志決定できる人間に育てなければならない。
 そして、決めたことを速やかに行動に移せる人間に育てなければならない。
 さらに、結果を受けとめ、仮に失敗してもめげずに再挑戦できる人間に育てなければならない。
 人を育てるというのは、実に根気がいる仕事である。

中学の知識があれば政治家のウソは見抜ける

 小池都知事は、議院内閣制ということを知らないのか。
 いや、まさかそんなことはあるまい。大臣までやって今は都政のトップにいる人だ。

 都知事と国政政党の代表との二足の草鞋を履くことについて、小池都知事は、こう答えた。
 「安倍さんだって、自民党の総裁と総理大臣を兼ねている」

 いやいや、これは憲法にも規定されたわが国の基本的政治制度なのだよ。
 基本的に国会で多数を占めた政党の党首が総理大臣に指名される。そういうルールになっていて、これが議院内閣制。中学校の公民教科書に載っていて、高校入試の必須知識だ。

 安倍総理のケースは、二足の草鞋でも何でもなく、当たり前のこと。
 小池都知事が問われているのは、東京都知事という地方自治体の長と、政権を目指そうという政党のトップとが両立できるのかという話だ。

 すると今度はこのように言う。
 「フランスのシラク首相はパリ市長を兼ねていた」
 そう、これは事実。シラク氏は、後に大統領になるが、首相時代も含め長くパリ市長を務めた。
 でも、同じ首相でもフランスの場合、行政権のトップは大統領だ。シラク氏もパリ市長だったのは大統領になる前まで。

 細かい説明は省くが、要は日本とは政治制度が異なる。
 そういう事例を持ち出して煙に巻く。これは小池都知事が得意とする手法だ。

 小池都知事に限らないが、政治家は一見もっともらしいことを言う。
 知識があれば、それが嘘であるとか、矛盾があるとかに気づくのだが、知らないと騙されてしまう。
 やっぱり、中学校までの勉強をしっかりやっておかなければならんな。
 これが今日の結論である。

日本人のノーベル賞好き

 3年連続受賞のノーベル賞、今年はゼロか。
 
 文学賞はいつものように村上春樹が落選し、英国のカズオ・イシグロ氏が受賞した。両親が日本人で5歳まで日本で暮らしたということだが、日本語は話さず完全な英国人だ。それでもマスコミは、何とか日本と結びつけようと必死だ。おまえらアホか。
 まあ、日本人のノーベル賞好きというのもあるんだろう。

 日本初のノーベル賞受賞者は、物理学賞の湯川秀樹博士だ。1949年というから、戦争が終わって4年目。敗戦に打ちひしがれた日本人に大いに勇気を与えたと言われている。湯川秀樹博士は、教科書にも載っていたので、私の世代以上の日本人は皆名前ぐらいは知っている。
 私は小学生の時、湯川博士の伝記を読んだ。家に少年少女世界伝記全集があったのだが、買いそろえたのは父なのか母なのか。今となっては分からない。息子の教育のために偉い人の話を読ませようと考えたのだろう。残念でした。全然偉人にならなかった。やっぱり読んだだけじゃダメなのだ。ただし、本好きにはなった。

 平和賞は、核兵器廃絶を訴える国際NGOが受賞した。2009年には米国オバマ大統領が、就任して1年経つか経たないかで平和賞を受賞している。このときの受賞理由も「核なき世界」を訴えたというもの。
 物理学賞、化学賞、医学・生理学賞と比べると、かなり政治色の強い賞であるようだ。中には、平和賞より戦争賞がふさわしいんじゃないのという人も受賞している。

 いつだったか、政府が「50年間でノーベル賞30人」(たぶん、そうだったと思う)という目標を掲げた。まあ、分かりやすい話だが、ノーベル賞は目標じゃなく、結果だろう。要は、ノーベル賞を受賞するくらいの優秀な科学者をたくさん育てましょうということだと受け取っておこう。

 研究には環境も重要であり、成果が出るまで時間がかかるので、政府が資金面でどれだけバックアップできるかが勝負だ。文部科学省は、くだらねえことばかりやってないで、しっかり科学技術予算を取れよ。

 頭のいい連中がこぞって医学部を目指す風潮もどうなんだろう。そりゃ優秀な医者が多いに越したことはないが、日本の将来を考えたら、理学部や工学部にも目を向けてもらわないと困る。

 以上。本日はノーベル賞ネタ。

作文は特定の誰かに向けて書く

 長くブログを書き続けていると、「今日はこれといって書くことないな」という日もある。ただ、自分で毎日書くと決めてしまったので、何かしら書かなくてはいけない。
 さて、どうする。

 これ自体は仕事ではないので、そんなに時間はかけられない。
 そんな場合のとっておきの手段は、知っている特定の誰かに向けて書くという技だ。

 本来どなたが読者であるか分からないブログであるが、「ブログ読んでます」と言ってくれる人もいるので、少しずつ分かってくる。そこで、その中の特定の誰かに向けて書く。今日はAさん、明日はBさんとテーマごとに相手を替えて書く。手紙を書くように。

 以前、知り合いが「ブログとか書くと炎上するときがあるじゃないですか。それが怖くて」とか心配してたので、「バーカ、オマエのブログが炎上するわけねえだろう。注目されている人だから炎上するんだよ」と言ってやった。
 プロの物書きでもなく、有名人でもない私たちに、見ず知らずの大勢に読んでもらえる文章なんて書けるわけがない。

 特定の誰かに向けて書く。
 だが、不思議なもので、知り合いに向かって書いていても、長く続けていると、知り合いじゃない人も少しずつ読んでくれるようになるみたいだ。
 たった一人であっても、「ふむふむ、その通りだな」と納得してくれるような文章を書ければ、世の中には結構似た考えの人がいるので、次第に輪が広がって行く。

 私が中学生に作文の書き方を指導するとき、「ふだん教わっている先生に向かって書くといいよ」という話をする。
 入試の作文を実際に読むのは、高校の先生だ。でも、どんな人か分からない。相手が分からない文章というのは書きにくいものだ。
 そこで、「そうか、そうか」、「なるほど、それで?」と読んでくれる身近な先生に向けて書く。そういう人、一人ぐらいいるよね。
 小学校低学年がやる「先生、あのね」の延長だ。

 読書について。友情について。高齢化社会について。
 そんなこと聞かれてもな。私だって困るよ。
 そこで、特定の誰かを思い浮かべて、その人に聞いてもらうつもりで書く。そうすると結構スムーズに書ける。
 ぜひ試してみてほしい。

偏差値を1上げるのに必要な得点は

 「ああ、惜しいな。偏差値があと1足りない」
 私立高校での進路相談では、よくこんなことがある。

 埼玉県以外にお住まいの読者の皆さんには何のことか分からないかもしれないが、埼玉の多くの私立高校の入試には、本番テストの前に、あらかじめ受験生のために合格の可能性を示してあげるという有難い仕組みがある。
 
 受験生は、自分の偏差値が分かる模擬試験などの成績を持って相談に行く。
 学校側はそれを見て、「まあ、余程のことがなければ大丈夫」とか「他を受ける必要はないです」とか、「去年はその偏差値で落ちた人はいません」とか、いろいろな表現を用いて、合格をほぼ保証するようなことを言う。
 もちろん学校側は、あらかじめ、1番上のコースなら偏差値70以上、2番目のコースなら偏差値68以上と決めてある。

 世間ではこれを「確約」と言ったりするが、学校側がズバリこの言葉を発することはない。が、受験生の側は、先の発言を引き出せれば、「確約をもらえた」と解釈していい。

 そんなことをしなくても、本番当日にしっかり高得点を取れば済む話であるが、体調不良で力が出せなかったとか、よりによって苦手な分野ばかり出たとか、そういうケースもあり得るわけだから、いわゆる「確約」は、もらえるものならもらっておいたほうがいい。

 さて、そうなると、これから12月ごろまでの模擬試験で、少しでも偏差値を上げておきたいということになる。

 偏差値を上げるには、基本的には自分の得点を上げることを考えればいい。
 ただし、自分の得点は下がったのに偏差値は上がってしまうということもある。なぜかと言うと、偏差値を求める場合、【「自分の得点」-「平均点」】という計算式が基礎になるからだ。つまり、「自分の得点」が上がったとしても、「平均点」の方がそれ以上に上がってしまえば、偏差値は下がるのである。

 偏差値を上げるには、「自分の得点」を「平均点」より、どれだけ上に持って行くかを考えればいい。
 だが、「平均点」がどれほどになるかは、試験が終わってみなければ分からない。もちろん「自分の得点」もだ。

 だから、「あと偏差値を1上げたい」と思っても、じゃあ、あと何点余計に取ればいいかという数字がなかなか決められないのである。

 大ざっぱに言えば、得点2点ごとに偏差値は1ずつ上がるのだが、これは「平均点」が一定ならばという話だ。「自分の得点」が前の試験より得点が2点上がっても、「平均点」が2点上がればチャラだ。

 が、そんな数字でもないよりはマシと言うものだ。
 各教科で2点ずつ上げれば、5教科全体で偏差値が1上がる。
 たった2点。
 そう考えれば、なんか出来そうな気がしてくるではないか。

学習量を時間以外の尺度で測る

 中学生向け受験情報紙「よみうり進学メディア」10月号に、「勉強の量を時間以外の尺度で測れないか」という記事を書いた。(発行は10月13日予定)

 先生「昨日は何時間勉強した?」
 生徒「はい、5時間やりました」
 先生「そうか。頑張ったな」
 よくある先生と生徒の会話だ。

 勉強の量を時間という単位を用いて測るのは別に間違いというわけではないし、お互い分かり易いから、それはそれでいい。

 と、ここまで書いて、教員時代の同僚に、生徒から本をどれくらい読めばいいかと尋ねられ「10キロ」と答えた先生がいたことを思い出した。

 話を戻す。
 記事の中で書いたのは、もしかしたら勉強の量を時間で表す考え方よりも、解いた問題数や読んだページ数、覚えた単語数といった別の尺度で考えてみるほうがいいのではないかということだ。

 たとえば、数学の証明問題。
 最初から苦手だと弱音を吐いている生徒がいるが、証明問題のほとんどは三角形の合同または相似を証明するものだ。
 合同や相似の条件はそれぞれ3つ。円周角、平行線などの定理や性質を用いて、そのうちのどれかに持ち込めばいい。パターンは限られている。
 おそらく合同、相似の証明を10問ずつぐらいやっておけば、そのいずれかのパターンで全部解ける。

 やや乱暴な議論だが、大事なのは、解いた問題数や覚えた単語数であって、何時間やったかではないのである。
 生徒には勉強量を別の単位で尋ねてみよう。
 時間を聞くのはその後だ。
 「で、それをやるのに何時間かかったの?」

SNSの恐さを改めて考えさせる事件

 福岡県の私立高校で、生徒が先生に暴行を働き、その模様(動画)がツイッターに投稿され拡散するという事件が起こった。

 画像などで見る限りだが、教員視点からは、この程度なら大した事件ではない。
 生徒は席に着いているし、机の上に教科書やノートも出ているし、学力はイマイチの学校かもしれないが、それなりに授業が成立しているように見える。

 まあ、ちょっと切れやすい生徒だったのかもしれないが、未然に防ぐことができるレベル。
 ただ、先生が若く経験不足だった。それだけの話だ。

 先生も当該生徒も早く立ち直ってほしい。

 が、この種の騒ぎを必要以上に大きくしてしまうのが、SNSだ。
 この学校では授業で今はやりのiPadを導入しているようだが、皮肉にもそれが騒ぎを拡大する道具に使われてしまった。

 もう一度言うが、校内的に解決できる程度の問題だ。教育的に解決できる問題だ。
 これは別に隠蔽(いんぺい)するとかではなく、生徒たちの為にも、先生の為にも、いちいち公にせず、内輪で済ませるべき軽微な問題である。
 生徒は2,3発蹴りを入れているが、最後は思いとどまったようで、「一線は超えていません」状態で、自席に戻っている。

 が、その程度の問題なのに、ネットに姓名や住所まで晒されてしまうのが、今の時代の恐ろしさである。
 暴力をふるったという点では加害者と言えるが、その何十倍ものむごい仕打を受ける被害者になってしまった。
 当該生徒も、まさかそこまでとは想像しなかっただろう。

 自業自得。
 かもしれんが、私は、一度でも教壇に立った身として、そこまでは言えない。
 
 もはやスマホやタブレットを持つな使うなと言える時代ではない。
 学校側も言うように、ITモラルやSNSの持つ危険性についてのさらなる教育が必要である。

なぜ野球の練習時間は長いのか

 高校野球秋季大会は、決勝で花咲徳栄が市立川越を破り4年ぶりの優勝。
 夏は1か月近く甲子園に滞在し、帰校後も多くのイベントに引っ張りまわされて、新チームのスタートが遅れたにもかかわらずこの結果。しばらくは花咲徳栄時代が続きそうだ。

 先日、県立浦和の文化祭(浦高祭)に行った折、野球部の1年生から声をかけられた。テレビの入試番組などで私の顔を知っていたようだ。
 かれは、地区予選を勝ち抜き県大会に出るのだと嬉しそうだった。県大会では62年ぶりに2勝し、ベスト16に進出した。よくやった。
 ところで。
 毎日どれくらい練習しているかと尋ねると、9時ぐらいまでという答え。
 おいおい勉強大丈夫か。予習復習は必須の学校だろう。

 ということで、前置きが長くなったが、なぜ野球の練習は長いのかが今日のテーマである。

 精神論の部分はひとまずおいておこう。
 短い練習時間で強くなれれば、それが理想だし、目指して欲しいが、私は、野球の練習時間の長さは、競技の特質によるものだと考えた。

 野球には、攻め(オフェンス)と守り(ディフェンス)という二つの要素がある。
 が、これは他の球技や格闘技なども同様である。
 しかし、他の球技などでは、攻めと守りに共通する技術がある。分かり易いのは球技におけるパス。これは攻めにも守りにも使える技術だ。テニス型の球技だと、レシーブは守りの技術であるが、攻めの第一歩でもある。

 バレーボールにおけるブロックは守りの技術であるが、それで得点することもできるので攻めの技術と見ることもできる。テニスではリターンエースというのもある。

 このように、多くの競技において、攻めと守りは混然一体となって行われるため、練習においても攻めの練習は守りの練習であり、守りの練習は攻めの練習となる。
 つまり、極論すれば、攻めも守りもほぼ同時に練習することが可能だ。

 ところが、野球においては、攻めと守りは、はっきりと分けられている。攻めの技術と、守りの技術に共通点がない。バッティングの技術は、ゴロを捕ることには応用できず、フライを捕る技術はバッティングには応用できない。

 早い話、技術的に共通点のない2つの競技をやっているようなものなのだ。
 だから、攻めに2時間、守りに2時間、両方やると4時間ということになる。こりゃ、放課後から始めりゃ、8時9時になるよな。

 1 相手が邪魔しない競技で、かつ個人で争う競技(陸上など)は、比較的短い練習で済む。
 2 攻めと守りが必要な競技は、両方の練習が必要なので、その分練習時間は長くなる。
 3 チームで争う競技は、コンビネーション(連携)の練習が必要なので、その分、練習時間が長くなる。
 4 道具を使う競技は、身体能力を高めるほか、道具を扱うスキルを高めなくてはならず、その分練習時間が長くなる。

 以上は、一般論だが、これに加えて、野球は前述したように、攻めと守りは別の競技と言っていいほど違うので、どうしたって練習時間が長くなるというのが、とりあえずの私の結論だ。

また会えるからこその「一期一会」

 「一期一会」(いちごいちえ)という言葉がある。

 元々は茶道から来た言葉だそうだ。
 「茶会に参加する時には、その機会は何度も繰り返されることのない一生一度の出会いと考えて、ホスト(亭主)もゲスト(客)も、共に誠意を尽くしましょう」
 こんな意味。

 これはネタではなく、今までに一人だけマジで「いっきいっかい」と読む人に出会った。その人には以来会っていないので、文字通り「一期一会」の出会いであった。

 ふだん、「じゃあ、また」と言って別れるが、年を取ると、その「また」が二度と訪れない可能性がある。年寄り同士だとなおさらだ。
 あと10年生きるとして、年に一度しか会わない人とはあと10回、2年に一度の人とはあと5回。と、こんな計算が成り立つ。
 だから、人と会うたびに、これが最初で最後かもしれないと自然に思えるようになってくる。
 出会いに感謝する気持ちも生まれてくる。

 その点、若い人たちは、その気になれば何回だって会える。
 が、だからこそ「一期一会」なのである。一瞬一瞬が「一期一会」なのである。

 この人との出会いは1回だけかもしれないから、その瞬間を大事にしましょう。そういう解釈もありだが、むしろ本来の「一期一会」は、毎日会っている人との関係を言っているように思う。

 明日があるかもしれないが、今日のこの出会いはただ1回である。明日のあなたとの出会いはまた別の出会いである。
 そんなことを年中考えると疲れるが、時々ちょこっと考えてみると、人間関係がまた違ったものになるかもしれない。

年を取ると、小さな段差が危険になる

 読者の皆さんの多くは私より年下だと思うが、そのうち私と同じ年になる。
 だから、ときどき老化の話をしておく。

 学校に行くときは原則上履き(運動靴)を持参する。電車で行くときとか、校長先生などと面会するだけと分かっているときなどは別だ。

 スリッパで学校内を歩くと、階段が怖い。
 普段でも、駅の階段、特に下りが怖い。だから、なるべく手すりがつかめる所を歩く。

 階段はまだいい。
 これから昇るぞとか降りるぞとか、脳にしっかり命令を下せるからだ。
 警戒すべきは、小さな段差だ。平地を歩いているときのほんの小さな段差。ここに躓く。躓くと立て直しが難しい。

 原因はおそらく「すり足歩行」である。
 筋力の衰えから、自然と足を引き摺るような歩き方になっているのだ。
 学校に行ったときスリッパを避けるのは、それだと必然的に「すり足歩行」になるからだ。

 躓く危険を回避するのは、つま先のキックを利かせることである。そうすると膝も上がりやすくなる。
 とにかくキックね。
 キック、キックって言い聞かせながら歩く。

 年を取ると、こういうふうに、若い時には全然気にしなかったことを考えるようになるんだよ。
 年中山に登ったり走ったりしている私でも、日常生活の危険を意識しなければならないんだ。

 結論。
 今のうちから足腰を鍛えておいたほうがいいぞ。