本日休業。
5月の健診で胃と大腸が要再検査となっていたが、本や新聞の締め切りに追われ、おまけに進学フェアもあったりしたので、今日は延び延びになっていた内視鏡検査の日だ。
午前中は15分後ごとに液体の下剤を飲み続ける。その量約2リットル。10回ぐらいトイレに行ったかな。
検査は午後からで、まず胃の内視鏡検査(胃カメラ)。バリウム検査ではポリープありだったので、モニターを見ながら、どこだどこだと探したが素人判断ながらそれらしいものは見つからない。検査はあっさり終わったから、特に問題なかったのだろうと勝手に判断。
次の検査に備えてベッドでしばらく休憩。外はクソ暑いが院内は快適だ。しばらくすると、隣に熱中症とおぼしきオッサンが運ばれてきた。続いてオバサンも。
カーテンで仕切られているので姿かたちは見えないが、普通の会話はできていたのでそれほど重症ではなさそうだ。良かったね。
しかし、いま病院はこういうことになっているんだね。知らなかった。
さて、次に大腸の内視鏡検査。前にもやったことがあるが、これ結構痛いよ。途中、何度か「イテッ、ヴガァー、グェー」とか声を上げたよ。
前にこの病院でやったときより、えらく時間がかかるなと思ったら、「今日は一番奥まで見ておきますから」だってさ。そりゃご親切にどうも。
痛てえ、とか言いながら、モニターはしっかり見てたんだが、こっちはよく分からなかった。
で、今日の診断結果は、どちらも問題なし。
ただ、胃と腸は別としてコレステロールはもう少し下げてくださいとは言われたな。
これだけ走って、運動してりゃ文句ねえだろうと思っているのだが、食生活に問題があるのかな。年中コンビニ弁当食ってるし。
よし、来年の健診ではコレステロールを劇的に下げてやろうじゃないか。見てろよ!
そんなわけで今日は仕事してません。
私はあと2か月で67歳になる。
この年になると年がら年中、死について考えるようになる。
若い連中は、「私だって考えますよ」と言うが、たまにだろう。こっちは日課だ。
で、一つの結論は、「人間は生きていること、ただそれだけで意味がある」ということだ。
このことは実に簡単な事実で論証することができる。
なぜ医者が必要とされるか。存在するだけでなく社会的評価が高く、尊敬されるか。
生きる手助けをするからである。
怪我や病気は治らなくてもいい。障害があったら生きる意味がない。ボケたら死ね。寝たきりなら死んだ方がましと言うなら、医療など成立しない。医者は必要ない。
だが、そうではなく「人間は生きていること、ただそれだけで意味がある」という存在であるから、その実現に奉仕する医療行為や医者という職業が必要なのだ。
儲かるから医者になるとか、安定してるから医者になるとかほざいているやつによく言っといてくれ。病気や怪我や障害で働けず、ただ生きてるだけの人はこの世で存在する意味がないというなら医者も消滅するってことをだ。
でも、人間の尊厳というものがあるでしょう。ただ生きてるだけじゃ他の動物と同じじゃないですか?
ごもっともだ。
だから、われわれは一生懸命、社会保障や福祉の制度を充実させようと努力してるじゃないか。これも生きてるってことがいかに大事かという論証になるんじゃないか。
以前にこのブログで、大の大人が軽々しく「死ね」なんて言葉を使うんじゃないという話を書いた。「日本死ね」とか「安倍死ね」なんて言ってるやつに、「オッパイ触らせて」を批判する資格はねえぞ。弱者の味方のふりしやがって。
話が横道にそれた。
最後にわが社のスタッフ(社員)の話をしておこう。
一人は障害者手帳持ってる。だから在宅勤務。もう一人は片目が不自由だけどビデオカメラ回してる。
別に私は、いい人と思われたくて給料払ってるわけじゃない。わが社にそんな余裕はない。
かれらは生きてるだけどころか、十分な働きをしてくれているわけだが、それ以上に、私に生きる意味や、働く意味を教えてくれた。
病気や怪我で働けなくなったら困るなと思うが、それは運命として受け入れるしかない。ただ、死ぬまで生きることは止めないぞ。だって、「人間は生きていること、ただそれだけで意味がある」のだから。
年一度の生活習慣病予防健診に行ってきた。
しかし、こういうのは、私のような年寄りが行くより、働き盛りの塾長たちこそ行くべきだな。
みんな、ちゃんと行ってるか。
生活は不規則で、食生活にも問題が多いんだから、検査は受けておいたほうがいい。
ときどき検査結果が悪いと嫌だから行きたくないなんていう人がいるが、それじゃ、自信がないからテストを受けたくないと言っている生徒と同じだ。
すでに65歳を過ぎた私がじきにくたばっても社会的な損失はたかが知れているが、まだ若い人たちは、これから家庭を築き、子供を育て、仕事もバリバリやって、大いに世の中に貢献してもらわなければならない。だから、社会的リスクという観点からも、健康管理は重要なのである。
健康のためには、適度な運動をしろとか、食生活に気を使えと言われるが、おそらく最大の敵はストレスである。
以前に書いたような気もするが、知り合いに健康オタクと言っていいような人物がいた。やれ、これが血液にいい、これを食うと免疫力がつく、これをやると内臓が丈夫になると、うるさいこと。
周りのみんなは、「すごいですね。とても真似できない」と感心したのだが、真似なくて良かったのである。その人は50手前であっさり亡くなった。たぶん、健康のためにはこういう生活をしなければならない、こういうものを食べなくてはいけないということが、ストレスになっていたんだと思う。
世の中には、はなっから頑張る気がないやつと、とことん頑張るやつがいるが、もし自分が「とことん頑張る派」であると自覚するなら、自分の辞書の中に、「まあ、こんなもんでいいか」、「まあ、しょうがないか」を付け加え、時々使ってみることだ。
8月6日に死んだ母親の通夜(10日)、告別式(11日)のため、いまいち気合の入らないブログを書き続けたが、明日からは平常運転に復帰するつもりだ。
葬儀の準備に忙殺される中、一瞬お休みを取ろうと思ったが、いったん自分で決めごとをしたら、愚直にやり続ける母であったから、その息子としては、何があっても休みにすることはできない。
親が死んでもブログ止めない。
父が享年80、母が享年90であるから、中をとって85歳あたりが自分の寿命だろうと勝手に決めているが、あと20年持つだろうか。
たぶん、そこまでは持つまい。
私は、「健康にいい」とか「身体にいい」という単語に、ほとんど反応しない人間であると自覚している。
マラソンや山登りをしているが、健康のためではない。これらはむしろ、身体を痛めつける行為であって、健康のことを考えたら、止めるか、ほどほどにすべきなのである。
だが、若いころからの流儀を、この年になって変えるのは難しい。
このままで行こう。
そして願わくば、母のように一瞬のうちに旅立ってしまいたいものである。
今日は一日中、新聞に載せる原稿を書いていたのだが、その中に、こいつは新聞社から書き換えを求められるかもしらんと、自主的にボツにした部分があるので、それを紹介しておこう。
受験勉強では、過去問は早く手がけたほうがいい。それは内容や形式やレベルをあらかじめ知っておいたほうが、目標・計画や対策が立てやすいからだという話の中で、こんな例えを挿入した。
「さあダイエットするぞと思ったヤツが最初にやるのは体重計に乗ることだろう。いま何キロか分からなかったら減量目標が立たないからだ。それとも、『どうせデブだし、がっかりして自信をなくすだけだから』と、事実から目を背けようとするのか。『どうせ出来ないから』と過去問を見ようとしない人は、このデブに似ている」
これが何でボツかというと、デブは人を不快にさせる言葉だから新聞では使わないでくれと言ってくるに決まっているからだ。じゃあ、ポッチャリにするかとも思ったが、それでは言いたいことが伝わらない。
だから、別の例え話に換えた。
たしかに見たくない真実というものはある。不都合な真実ってやつだ。
見ようが見まいが、真実は真実なのであるが、見る勇気がない。
健康診断や検査を受けたくない心理も、これかもしれない。
しかし、人間っていうのは弱いもんだね。
私も、他人には「真実から目を背けるな」と説教できるが、自分に、真実から目を背けない勇気があるかというと、ほとんど自信がない。
本当は、不都合な真実にできるだけ早く目を向けたほうが、正しい対策もとりやすく、またその結果、ものごとを自分にとって良い方向に持って行けるのだが、それができない。
さてと、近頃ベルトがちょっときつめになっているから、体重計に乗ってみるか。体脂肪率も20%を超えちゃってるかな。ああ恐ろしい、ああ見たくない。