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「自分がいた」って、どこにだよ

 バドミントン桃田選手が謝罪会見の中で、「自分もスポーツマンで勝負の世界に生きているし、ギャンブルというものに興味があって」と話していた。
 これ完全に考え違い。

 たとえば、競馬の世界なら、勝負に生きているのは騎手や調教師で、ギャンブルしているのはお客。スポーツマンがギャンブルをしたって強くはならない。
 ただまあ、若い子のことだから。あまり責めても仕方がないか。まだまだ長い人生だ。もう一回出直して来い。

 それはそうと、会見の中で二人はこんな表現をしている。
 田児選手「いけないことだとは分かっていたが止められない自分がいた」
 桃田選手「好奇心を少し楽しんでいる自分もいて……」
 この「自分がいる」とか「自分がいた」という表現は、今の若い子たちの流行なのか。

 私の感覚では、「いけないことだと分かっていたが止められなかった」でいいわけで、「自分がいた」は不要。「好奇心を少し楽しんでいた」までで、「自分もいて」は余計。

 たとえば、「公園でお花見を楽しんでいる人がいた」という文がある。この場合、楽しんでいるのは自分じゃなくて、他人である。自分は、遠くから客観的にその光景を見ていたということになる。

 ここで、「人」という言葉を「自分」に入れ替えてみる。
 「公園でお花見を楽しんでいる自分がいた」。
 通常の表現なら「他人」を入れるべきところに、「自分」を入れる。そしてさらに、それを自分で見る。
 つまり、よく言えば、自分を客観視するということになる。

 だが、私には他人事を語っているように聞こえる。私なら、謝罪の場では使わない。

 若い世代の人たちは、ふだん当たり前のように使っているから、このジイさん何を言ってるのかと思うだろうが、「自分がいる」とか「自分がいた」というのは、もともとは、詩や小説の中に出てくる、ちょっと気どった表現だったのだ。

 「夕陽を眺めていた」→「夕陽を眺めている自分がいた」
 「遠くを見つめていた」→「遠くを見つめている自分がいた」

 どうだ。ちょっと格好いいだろう。
 だがまさか、これが日常の話し言葉に入り込んでくるとは思わなかった。

 しかし、言葉は生き物と言われるし、若い世代には何の抵抗もなく受け入れられる表現なのかもしれない。引っかかっているのは年寄りだけ。

 そうか、もう私の時代は終わったのだ。そろそろ退場の準備をしなくてはと、ガックリ肩を落とす自分がそこにいた

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受験生・保護者の皆さん、学校や塾の先生方に最新情報をお届けします。ただし、結構頻繁に受験と無関係の話も。

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