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天皇皇后両陛下行幸にちなみ高麗神社と高句麗の話

 天皇皇后両陛下が20日、私的なご旅行で埼玉県日高市の高麗神社をご訪問された。
 高麗神社は、「こま・じんじゃ」と読む。

 近くには巾着田(きんちゃくだ)と呼ばれる曼殊沙華(まんじゅしゃげ)の群生地があり、今が見ごろである。

 私はこの神社には4、5回行っているが、神門の扁額(へんがく・横に長い額で表札みたいなもの)には「高」と「麗」の文字の間に、小さく「句」という字が記されている。つまり「高句麗神社(こうくり・じんじゃ)」。
 「高句麗」は、紀元前後から7世紀にかけて朝鮮半島に栄えた国である。それに対し、「高麗(こうらい)」は10世紀から14世紀にかけて朝鮮半島を統一した国。 
 高麗神社に関係あるのは、「高句麗」の方なので、「高麗」と区別するために後で「句」の字を付け加えたものと思われる。

 さて、ここからは中学生でも分かる高句麗の歴史。

 5世紀ごろ。
 朝鮮半島は、高句麗・百済(くだら)・新羅(しらぎ)の三国時代。一番デカかったのが高句麗。
 日本の大和政権は、百済や、小国が分立していた加羅(任那)地方の国々と結んで、高句麗や新羅と戦った。倭(日本)と戦った高句麗の好太王(こうたいおう)の功績を称えた石碑が、今も残る好太王碑(広開土王碑)である。
 高句麗は668年、唐と新羅の連合軍に敗れ滅亡する。日本は先に滅ぼされた百済を助けるため援軍を送ったが、「白村江(はくすきのえ)の戦い」で唐に大敗した(663年)。
 このような7世紀中盤の朝鮮半島の緊張の中で、政治改革をめざす「大化の改新」(645年)起こっている。

 ということが、中学校の歴史教科書に書いてあるぞ。
 ずいぶん、いろんなことを勉強しているんだね。

 この先はさすがに教科書にはないのだが、大ざっぱに言えば、高句麗滅亡後、日本に移り住んで来た人々が関東各地に散らばり、後に現在の日高市あたりに集結した。そのリーダーが高麗王・若光(じゃっこう)で、これを祀ったのが高麗神社である。

 東明王陵
 高句麗の初代と言われる東明王の陵墓。平壌(ピョンヤン)郊外にある。(2006年筆者撮影)

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