先生の仕事を大きく2つに分類してみる
先生の仕事を私流に分類してみる。
なお、これから書くことは現状の私自身の知識と経験の範囲内であるから、勉強が進むと少しずつ変わる可能性もある。
先生の仕事を大きく2つに分類してみる。
1.教育的な仕事(児童生徒と直接関わる仕事)
2.事務的な仕事(児童生徒と直接には関わらない仕事)
「1.教育的な仕事」は、目の前に生徒がいないと成立しない仕事である。
中心になるのはもちろん授業。教材研究(授業の事前準備)やテスト問題作成・採点は授業に付随するので家でやるとしても授業の範疇。部活や行事がらみも教育そのもの。
これらは合理化になじまない。時短、機械化、省力化が難しい。
もちろん、それが可能な事柄もある。テスト問題作成や採点は合理化できるかもしれない。ただ、行き過ぎると、じゃあ学校の意味、先生の意味って何なのよとなってしまう。
「2.事務的な仕事」は、生徒に直接的には関わらない仕事。よく言われる雑務の多くは事務的な仕事だ。
こちらは合理化できる。もっと徹底すべきだ。
募集に関わる仕事も、教育そのものではないから、私はこちらに分類している。
事務スタッフを増員する。あるいは外注する。
いずれも予算を伴うが、合理化を進めても生徒は直接被害を受けない。
先生の働き方改革を進めるなら、「2.事務的な仕事」の合理化から入るべきだ。
「1.教育的な仕事」について先生方は、もっと効率的にできないかと考えることもあるだろう(正確に言えば効果的に、か?)。しかし、ここで楽をしたいと思っている人は稀で、ほとんどの先生は放っておけばどこまでもやってしまう。
つまり、働き方を変えようと「1.教育的な仕事」にメスを入れても、新たな時間が生まれたら、結局は生徒のために使うから、同じことなんだ。
なんだかんだ言っても、生徒と一緒のときが一番楽しいからね。それが苦痛なら早いとこ職業替えするんだな。
部活問題が騒がれている。
たしかに一部行き過ぎという面もあるし、先生方は相応の犠牲を払わなければならないのも事実だが、生徒と共にある時間は本来楽しいはずのものだ。
それを苦痛にさせているのは、「2.事務的な仕事」の重さであるから、ここも合わせて議論しないと解決につながらないと私は考える。
なお、これから書くことは現状の私自身の知識と経験の範囲内であるから、勉強が進むと少しずつ変わる可能性もある。
先生の仕事を大きく2つに分類してみる。
1.教育的な仕事(児童生徒と直接関わる仕事)
2.事務的な仕事(児童生徒と直接には関わらない仕事)
「1.教育的な仕事」は、目の前に生徒がいないと成立しない仕事である。
中心になるのはもちろん授業。教材研究(授業の事前準備)やテスト問題作成・採点は授業に付随するので家でやるとしても授業の範疇。部活や行事がらみも教育そのもの。
これらは合理化になじまない。時短、機械化、省力化が難しい。
もちろん、それが可能な事柄もある。テスト問題作成や採点は合理化できるかもしれない。ただ、行き過ぎると、じゃあ学校の意味、先生の意味って何なのよとなってしまう。
「2.事務的な仕事」は、生徒に直接的には関わらない仕事。よく言われる雑務の多くは事務的な仕事だ。
こちらは合理化できる。もっと徹底すべきだ。
募集に関わる仕事も、教育そのものではないから、私はこちらに分類している。
事務スタッフを増員する。あるいは外注する。
いずれも予算を伴うが、合理化を進めても生徒は直接被害を受けない。
先生の働き方改革を進めるなら、「2.事務的な仕事」の合理化から入るべきだ。
「1.教育的な仕事」について先生方は、もっと効率的にできないかと考えることもあるだろう(正確に言えば効果的に、か?)。しかし、ここで楽をしたいと思っている人は稀で、ほとんどの先生は放っておけばどこまでもやってしまう。
つまり、働き方を変えようと「1.教育的な仕事」にメスを入れても、新たな時間が生まれたら、結局は生徒のために使うから、同じことなんだ。
なんだかんだ言っても、生徒と一緒のときが一番楽しいからね。それが苦痛なら早いとこ職業替えするんだな。
部活問題が騒がれている。
たしかに一部行き過ぎという面もあるし、先生方は相応の犠牲を払わなければならないのも事実だが、生徒と共にある時間は本来楽しいはずのものだ。
それを苦痛にさせているのは、「2.事務的な仕事」の重さであるから、ここも合わせて議論しないと解決につながらないと私は考える。