教員の意識改革求めるなら、校長自身が変わらないと
当ブログの読者には公立の管理職の方もいる模様である。
今日は、主としてその方たちを想定して書きますよ。
皆さんからよく聞く言葉。
「教員の意識改革が必要だ」。
私はそれを聞いて心の中で言っている。
「お前もな」。
自分の意識だってそう簡単には変えられないのに、他人の意識が変えられるか。
「無理に決まってんだろう」。
ただ、自分の意識を変えれば、他人が今までとは違って見えるかもしれない。
「あいつ、ああ見えて結構考えてるんだ」。
意識なんて心の中の問題なんだから、自分で変えようと思えば変えられるんじゃないか。
「いや、意思では変えられませんよ」。
たとえば、生きるか死ぬかの体験をしたら変わるかもしれない。大病を患ったら変わるかもしれない。ただ、そんなことは滅多にないし、あってほしくない。
よく立場が人を変えると言う。
「あなたの今の意識は、立場がそうさせたんですよ。意識が変わったから校長・教頭になれたんじゃなく、校長・教頭になったから意識が変わったんじゃないですか?」。
私は校長にも教頭にもなったことはないが、想像すればそういうことだ。
問題を問題だと認識してないやつに問題だと気づかせてやるには、問題に直面させてやるしかないでしょう。そうすりゃ、よほどのバカじゃない限り気づくはず。バカじゃ教員になれないから、要するに誰でも気づくということ。
実際にその仕事につけてやる。責任ある立場に置いてやる。意識改革には、そのような人事的な、あるいは組織論的なアプローチのほうが有効ではないかと考えるわけである。
下向きのコップという話がある。
あいつはダメだ。使いもんにならん。これが下向きのコップ状態。これじゃ、一滴の水も入ってこない。
そこで、とりあえずコップを上向きにして待つ。そうすると、ジャバジャバというわけにはいかないが、チョロチョロぐらいには入ってくるかもしれない。
あの野郎、意識が低い、問題意識がなさすぎと言う前に、管理職はコップを上向きにして待ったら、という話である。
今日は、主としてその方たちを想定して書きますよ。
皆さんからよく聞く言葉。
「教員の意識改革が必要だ」。
私はそれを聞いて心の中で言っている。
「お前もな」。
自分の意識だってそう簡単には変えられないのに、他人の意識が変えられるか。
「無理に決まってんだろう」。
ただ、自分の意識を変えれば、他人が今までとは違って見えるかもしれない。
「あいつ、ああ見えて結構考えてるんだ」。
意識なんて心の中の問題なんだから、自分で変えようと思えば変えられるんじゃないか。
「いや、意思では変えられませんよ」。
たとえば、生きるか死ぬかの体験をしたら変わるかもしれない。大病を患ったら変わるかもしれない。ただ、そんなことは滅多にないし、あってほしくない。
よく立場が人を変えると言う。
「あなたの今の意識は、立場がそうさせたんですよ。意識が変わったから校長・教頭になれたんじゃなく、校長・教頭になったから意識が変わったんじゃないですか?」。
私は校長にも教頭にもなったことはないが、想像すればそういうことだ。
問題を問題だと認識してないやつに問題だと気づかせてやるには、問題に直面させてやるしかないでしょう。そうすりゃ、よほどのバカじゃない限り気づくはず。バカじゃ教員になれないから、要するに誰でも気づくということ。
実際にその仕事につけてやる。責任ある立場に置いてやる。意識改革には、そのような人事的な、あるいは組織論的なアプローチのほうが有効ではないかと考えるわけである。
下向きのコップという話がある。
あいつはダメだ。使いもんにならん。これが下向きのコップ状態。これじゃ、一滴の水も入ってこない。
そこで、とりあえずコップを上向きにして待つ。そうすると、ジャバジャバというわけにはいかないが、チョロチョロぐらいには入ってくるかもしれない。
あの野郎、意識が低い、問題意識がなさすぎと言う前に、管理職はコップを上向きにして待ったら、という話である。