塾長のジレンマ
再び夏休みネタ。
お勉強の苦手な子は、何をやるべきかを自分で決められない。
授業のときは大丈夫。そこは先生が決めてくれる。家に帰って何をやるかも宿題という形で決めてくれる。
けれど、夏休みはそれがないから、何をやっていいか分からない。だから、夏休みは力が伸びるどころか、力が落ちてしまう。これが前回の話だった。
たぶん、これを補ってくれるのが塾という存在なんだろう。
まずこれをやって、次にこれ、そのあとこれと、続々と自分の課題を見つけられる子に塾は不要だ。
保護者には、塾に行って、「できる子」になってほしいと願う。本人にもその期待がある。
さあしかし、問題は「できる子」とは、どういう子かということだ。
できる子とは、試験で点数が取れる子というのであれば、塾は十分その期待に応えてくれるだろう。
塾の先生にとって、試験問題を予想するなんて、超簡単なことだからね。
でもね、こういうタイプの「できる子」が通用するのは生徒や学生のうちだけだね。
世の中に出たら、どんな職業に就こうと、こういうタイプは使えない。
社会に出ても「できる子」であり続けるためには、自立型の「できる子」にならなきゃいけない。つまり、課題(やるべきこと)を自分自身で発見して、その解決法を自分で考えて実行できる子。
まあ、これは文科省なんかがずっと言っているけど、文科省が言おうが言うまいが、大昔からそういうことなんだ。
塾は、自立型の「できる子」を育てる場所じゃないよ。だいいち、それを実現してしまったら、みんな塾に来なくなっちゃうからね。
じゃあ、塾ではわざと自立させないようにしているか。いや、たぶんそれはない。ちょっとでも人にものを教えた経験がある人は分かると思うけど、教えているうちに、いつまでも人に頼ってないで、もうちょっと自分で考えてやれよっていう気持ちになるからね。学校でも塾でも、最後はそこに行きついちゃうんだ。
そう考えると、塾長も大変だ。自立してほしいんだけど、本当にそうなったら自分から離れて行くっていうことだからね。私は、これを「塾長のジレンマ」って言ってるんだけど、皆さん、そこんとこどう考えてるんだろう。
お勉強の苦手な子は、何をやるべきかを自分で決められない。
授業のときは大丈夫。そこは先生が決めてくれる。家に帰って何をやるかも宿題という形で決めてくれる。
けれど、夏休みはそれがないから、何をやっていいか分からない。だから、夏休みは力が伸びるどころか、力が落ちてしまう。これが前回の話だった。
たぶん、これを補ってくれるのが塾という存在なんだろう。
まずこれをやって、次にこれ、そのあとこれと、続々と自分の課題を見つけられる子に塾は不要だ。
保護者には、塾に行って、「できる子」になってほしいと願う。本人にもその期待がある。
さあしかし、問題は「できる子」とは、どういう子かということだ。
できる子とは、試験で点数が取れる子というのであれば、塾は十分その期待に応えてくれるだろう。
塾の先生にとって、試験問題を予想するなんて、超簡単なことだからね。
でもね、こういうタイプの「できる子」が通用するのは生徒や学生のうちだけだね。
世の中に出たら、どんな職業に就こうと、こういうタイプは使えない。
社会に出ても「できる子」であり続けるためには、自立型の「できる子」にならなきゃいけない。つまり、課題(やるべきこと)を自分自身で発見して、その解決法を自分で考えて実行できる子。
まあ、これは文科省なんかがずっと言っているけど、文科省が言おうが言うまいが、大昔からそういうことなんだ。
塾は、自立型の「できる子」を育てる場所じゃないよ。だいいち、それを実現してしまったら、みんな塾に来なくなっちゃうからね。
じゃあ、塾ではわざと自立させないようにしているか。いや、たぶんそれはない。ちょっとでも人にものを教えた経験がある人は分かると思うけど、教えているうちに、いつまでも人に頼ってないで、もうちょっと自分で考えてやれよっていう気持ちになるからね。学校でも塾でも、最後はそこに行きついちゃうんだ。
そう考えると、塾長も大変だ。自立してほしいんだけど、本当にそうなったら自分から離れて行くっていうことだからね。私は、これを「塾長のジレンマ」って言ってるんだけど、皆さん、そこんとこどう考えてるんだろう。