廣川貞夫先生を悼む
※本日はきわめて個人的話である。
前県立熊谷女子高校校長の廣川貞夫先生が、11日、肺がんのため亡くなった。享年61。
廣川先生との縁は、47年前にさかのぼる。
当時かれは熊谷高校のバレーボール部に所属していた。私は、浦和高校のバレーボール部。学年は私の方が一つ上。今は両校ともあまり強くないが、その頃は、浦和・熊谷・春日部・川越などが県大会で優勝争いをしていた。
インターハイ出場がかかった試合で熊谷と対戦し、私たちは敗れた。私はコートにいたが、1学年下のかれは、まだレギュラーではなかったので、直接コート上で対戦することはなかった。だから、もちろん名前も知らなかった。後日、昔話をした時に、そういう接点があったのだという話になった。
その後、共に高校教員になった。
廣川先生は保健体育で、私は社会科だったので、教科を通じての関わりはなかったが、かれは浦和一女で、私は川口北で女子バレーボール部の顧問だったので、スポーツを通じての縁は深まって行った。
昭和59年、かれが川口北に転勤してきたので、同僚として過ごすという幸運にも恵まれた。
私は途中で教員をやめたが、かれは、県教育委員会で保健体育課長などの要職を務め、2年前、熊谷女子の校長を最後に教職を離れた。
才能豊かで人望の厚いかれには、これから10年、20年と埼玉県のスポーツ界のために尽力してもらわなければならなかった。惜しい人材を失った。誠に無念である。
本日、地元熊谷で通夜。
お別れに行ってくる。
前県立熊谷女子高校校長の廣川貞夫先生が、11日、肺がんのため亡くなった。享年61。
廣川先生との縁は、47年前にさかのぼる。
当時かれは熊谷高校のバレーボール部に所属していた。私は、浦和高校のバレーボール部。学年は私の方が一つ上。今は両校ともあまり強くないが、その頃は、浦和・熊谷・春日部・川越などが県大会で優勝争いをしていた。
インターハイ出場がかかった試合で熊谷と対戦し、私たちは敗れた。私はコートにいたが、1学年下のかれは、まだレギュラーではなかったので、直接コート上で対戦することはなかった。だから、もちろん名前も知らなかった。後日、昔話をした時に、そういう接点があったのだという話になった。
その後、共に高校教員になった。
廣川先生は保健体育で、私は社会科だったので、教科を通じての関わりはなかったが、かれは浦和一女で、私は川口北で女子バレーボール部の顧問だったので、スポーツを通じての縁は深まって行った。
昭和59年、かれが川口北に転勤してきたので、同僚として過ごすという幸運にも恵まれた。
私は途中で教員をやめたが、かれは、県教育委員会で保健体育課長などの要職を務め、2年前、熊谷女子の校長を最後に教職を離れた。
才能豊かで人望の厚いかれには、これから10年、20年と埼玉県のスポーツ界のために尽力してもらわなければならなかった。惜しい人材を失った。誠に無念である。
本日、地元熊谷で通夜。
お別れに行ってくる。