学校の先生と塾の先生はどう違う
戸田市の笹目中学校が、学習塾の先生を講師として招き、補習授業を行うという。
(3月19日付埼玉新聞記事より)
さて、これってどうなのかな。もろ手を挙げて賛成という気分じゃない。なんか引っかかるものがある。それが何なのか考えてみようと思う。
その前に、私の個人的な関係を話しておくと、笹目中学校の校長は、県の総合教育センターなどにいらした方で、以前にお会いしたことがある。協力する塾は、サイエイスクール・湘南ゼミナールともう一つで合わせて3塾だが、サイエイスクールとは、何年もテレビ埼玉の番組を一緒にやっている。湘南ゼミナールとはつい最近も埼玉新聞の入試予想記事を共同で書いた。つまり、私としては、友好的・協力的関係にある人たちのことを念頭に書くわけである。
私は、今の学校は、いろんな仕事を引き受け過ぎで、それが教員の多忙にもつながっているのではないかと考えている。
子供の教育は、全部まとめて学校に任せておけばよいというものではなく、家庭や地域、その他の協力者が、それぞれ役割を分担し、相互に連携を図りながら進めるべきだと思う。
そういう点では、地域の人々の連携を深めるこの種の試みは評価していいと思う。要は、子供たちの学習意欲が高まり、成績が向上すればよいのだ。
大事なのは、それぞれが、どういった専門性をもって、事に当たるかである。
私は、学校の先生と、塾の先生は、同じ先生でも、異なる仕事(職種)だと考えている。何となく似てるが、実は違う。「似て非なる」仕事。
これは、ちょっと考えてみれば簡単に分かることで、たとえば、「受験指導」というのは、学校の先生にとって仕事の一部であるが、塾の先生にとっては全部である。学校の授業は受験のためだけに行われるものではないが、塾の授業は受験のためだけに行われる。学校の先生は、行事や部活のために多くの時間を割かなければならないが、塾の先生にはそれらの仕事は一切ない。
つまり、学校の先生は、仕事の性質上、「受験指導のプロ」はなれないのである。永遠に無理。
一方、塾の先生は、同じく仕事の性質上、「受験指導のプロ」になれるし、ならなければいけない。
だが、相手にしているのは同じ子供たちである。
現実には、学校の先生も受験指導に無関心・無責任であることは許されないし、塾の先生とて、受験テクニックさえ伝授すれば、それで保護者の支持を得られるかというと、そうはならず、子供の内面にも立ち入った指導が求められるのである。
そこで、両者の連携が有効になる。つまり、子供たちを間に挟んで、異なる分野の専門家同士が連携する必要性である。
私は、若い塾の先生たちによく言っている。
「塾で学校ごっこしてんじゃない。学校の先生のまねごとするな」
つまり、塾の先生としての専門性を磨いてほしいということだ。
学校の先生には言う機会がないが、もしあれば、こう言うだろう。
「学校で塾ごっこしてんじゃない。塾の先生のまねごとするな」
学校には、塾ではとうていカバーできない領域があるわけだから、そこでの専門性を磨いてほしい。
素人が何十人集まって何十回議論したって、ろくな結論は出ない。
しかし、専門性をもった人々が情報を共有し、それをもとに相互の連携を図れば、何か新しいものが生み出されるのではないかという期待も高まる。
自戒を含めてだが、子供たちの成長のために専門性を磨こうではないか。
(3月19日付埼玉新聞記事より)
さて、これってどうなのかな。もろ手を挙げて賛成という気分じゃない。なんか引っかかるものがある。それが何なのか考えてみようと思う。
その前に、私の個人的な関係を話しておくと、笹目中学校の校長は、県の総合教育センターなどにいらした方で、以前にお会いしたことがある。協力する塾は、サイエイスクール・湘南ゼミナールともう一つで合わせて3塾だが、サイエイスクールとは、何年もテレビ埼玉の番組を一緒にやっている。湘南ゼミナールとはつい最近も埼玉新聞の入試予想記事を共同で書いた。つまり、私としては、友好的・協力的関係にある人たちのことを念頭に書くわけである。
私は、今の学校は、いろんな仕事を引き受け過ぎで、それが教員の多忙にもつながっているのではないかと考えている。
子供の教育は、全部まとめて学校に任せておけばよいというものではなく、家庭や地域、その他の協力者が、それぞれ役割を分担し、相互に連携を図りながら進めるべきだと思う。
そういう点では、地域の人々の連携を深めるこの種の試みは評価していいと思う。要は、子供たちの学習意欲が高まり、成績が向上すればよいのだ。
大事なのは、それぞれが、どういった専門性をもって、事に当たるかである。
私は、学校の先生と、塾の先生は、同じ先生でも、異なる仕事(職種)だと考えている。何となく似てるが、実は違う。「似て非なる」仕事。
これは、ちょっと考えてみれば簡単に分かることで、たとえば、「受験指導」というのは、学校の先生にとって仕事の一部であるが、塾の先生にとっては全部である。学校の授業は受験のためだけに行われるものではないが、塾の授業は受験のためだけに行われる。学校の先生は、行事や部活のために多くの時間を割かなければならないが、塾の先生にはそれらの仕事は一切ない。
つまり、学校の先生は、仕事の性質上、「受験指導のプロ」はなれないのである。永遠に無理。
一方、塾の先生は、同じく仕事の性質上、「受験指導のプロ」になれるし、ならなければいけない。
だが、相手にしているのは同じ子供たちである。
現実には、学校の先生も受験指導に無関心・無責任であることは許されないし、塾の先生とて、受験テクニックさえ伝授すれば、それで保護者の支持を得られるかというと、そうはならず、子供の内面にも立ち入った指導が求められるのである。
そこで、両者の連携が有効になる。つまり、子供たちを間に挟んで、異なる分野の専門家同士が連携する必要性である。
私は、若い塾の先生たちによく言っている。
「塾で学校ごっこしてんじゃない。学校の先生のまねごとするな」
つまり、塾の先生としての専門性を磨いてほしいということだ。
学校の先生には言う機会がないが、もしあれば、こう言うだろう。
「学校で塾ごっこしてんじゃない。塾の先生のまねごとするな」
学校には、塾ではとうていカバーできない領域があるわけだから、そこでの専門性を磨いてほしい。
素人が何十人集まって何十回議論したって、ろくな結論は出ない。
しかし、専門性をもった人々が情報を共有し、それをもとに相互の連携を図れば、何か新しいものが生み出されるのではないかという期待も高まる。
自戒を含めてだが、子供たちの成長のために専門性を磨こうではないか。