師と仰げる人と出会える幸せ
昨日のブログにコメントを寄せてくれた方がいて、それを読んでこんなことを考えた。
師と仰げる人と出会える幸せ。
私は先生をやっていたので、教師とも呼ばれた。卒業生からは恩師と言われたりもする。結婚式などに呼ばれた場合は、他に言いようがないので恩師と紹介されたものだ。
しかし、そういう形式的なことではなく、真の意味で生徒たちにとっての師たりえたかというと、内心忸怩たる思いがある。
※忸怩(じくじ)=深く恥じ入ること
ただ、少し言い訳をさせてもらうと、20代、30代の私は、己がまだ修行中の身であったのだ。師と仰がれるには、あまりにも未熟であった。
さて、一方。
私には師と仰ぐ人がいる。
似た言葉に恩人というのがあるが、師と恩人の違いは何であろうか。
人生を変えるきっかけを作ってくれた人という点では、どちらも同じだと思うが、どんなに大恩があろうと、その恩人のように生きたいとまでは思わない。それはまた別の問題だ。
ただただ一生感謝し続ける。そして、その感謝の気持ちは孫子の代まで伝える。
師は己ひとりのものである。心の中に常にある。
師に一歩でも近づこうと努力する。ようやく少し追いついたかと思うと、師はさらに先を行っている。また追いかける。もっと先を行っている。
そして、己の死の間際。
「とうとう追いつけなかったか」。
だが、それでいい。師とはそういう存在なのだ。
師は、学校の教師であるとは限らない。
私たちは、どこかの誰かから、師と仰がれるような人間になるべく、人間修行を続けなければならない。
師と仰げる人と出会える幸せ。
私は先生をやっていたので、教師とも呼ばれた。卒業生からは恩師と言われたりもする。結婚式などに呼ばれた場合は、他に言いようがないので恩師と紹介されたものだ。
しかし、そういう形式的なことではなく、真の意味で生徒たちにとっての師たりえたかというと、内心忸怩たる思いがある。
※忸怩(じくじ)=深く恥じ入ること
ただ、少し言い訳をさせてもらうと、20代、30代の私は、己がまだ修行中の身であったのだ。師と仰がれるには、あまりにも未熟であった。
さて、一方。
私には師と仰ぐ人がいる。
似た言葉に恩人というのがあるが、師と恩人の違いは何であろうか。
人生を変えるきっかけを作ってくれた人という点では、どちらも同じだと思うが、どんなに大恩があろうと、その恩人のように生きたいとまでは思わない。それはまた別の問題だ。
ただただ一生感謝し続ける。そして、その感謝の気持ちは孫子の代まで伝える。
師は己ひとりのものである。心の中に常にある。
師に一歩でも近づこうと努力する。ようやく少し追いついたかと思うと、師はさらに先を行っている。また追いかける。もっと先を行っている。
そして、己の死の間際。
「とうとう追いつけなかったか」。
だが、それでいい。師とはそういう存在なのだ。
師は、学校の教師であるとは限らない。
私たちは、どこかの誰かから、師と仰がれるような人間になるべく、人間修行を続けなければならない。