毎日更新1年半、メシ食うように後半戦
「石の上にも三年」。
冷たい石でも3年座り続けていれば温まってくる。つまり、辛抱すれば、必ず成功するという意味だ。
この場合、3年は単に「長い」という意味で使われているので、実際は1年でも2年でもよろしい。苦労は報われるというところがポイントなのだろう。
さて、今日はなぜこの話題なのかというと、「毎日ブログ更新」を始めてから、ちょうど1年半を経過した。「石の上にも三年」とするなら、折り返し点に到達したわけだ。
我ながら結構続いてるじゃないかと思う反面、5年も10年も続けている人もいるのだから、どうってことはないとも思う。
よくネタが尽きませんね、と言われるが、凡打を恐れなければ何でも書ける。今日がダメなら明日、明日がダメなら明後日、そう考えればいい。
フェイスブックに毎日投稿している人もいるが、ほとんど凡打だな。くだらなすぎて、いちいちコメントしてられない。申し訳ないから、とりあえず「いいね!」は押しておくけどね。
でも、そんなフェイスブックの投稿でも、何回かに1回は、う~ん、なるほどとか、そいつは面白いというのに出会うんだ。まあ、それで十分だ。ブログもそれと一緒。
毎日続けるには生活の一部にすることだ。仕事にしてしまうと「明日にしよう」もありになってしまう。
生活の一部とは、毎朝歯を磨く、三度のメシを食う、夜風呂に入る、そういうものと同列に置くということだ。だから、書こうかどうしようかなどといちいち考えない。
この「考えない」というのは重要なところで、もし考えると、「書く」と「書かない」のどちらかの選択になって、「書かない」が選ばれる可能性がある。だから、考えない。
自分で言うのもなんだが、私はものごとをよく考える方である。そのために、限りある脳みその働きを無駄に使わないように心がけている。考えることが多すぎると、脳みそがパンクしてしまうからだ。
脳みそのキャパが大きい人は、何でもかんでも深く考えられるんだろうが、自分には荷が重い。だから、より多く「考える」ために、たくさんの「考えない」を用意しておく。
ということで、「石の上にも三年」の後半戦。メシを食うような感覚で、それほど深く考えもぜず凡打の山を築いて行くのである。
冷たい石でも3年座り続けていれば温まってくる。つまり、辛抱すれば、必ず成功するという意味だ。
この場合、3年は単に「長い」という意味で使われているので、実際は1年でも2年でもよろしい。苦労は報われるというところがポイントなのだろう。
さて、今日はなぜこの話題なのかというと、「毎日ブログ更新」を始めてから、ちょうど1年半を経過した。「石の上にも三年」とするなら、折り返し点に到達したわけだ。
我ながら結構続いてるじゃないかと思う反面、5年も10年も続けている人もいるのだから、どうってことはないとも思う。
よくネタが尽きませんね、と言われるが、凡打を恐れなければ何でも書ける。今日がダメなら明日、明日がダメなら明後日、そう考えればいい。
フェイスブックに毎日投稿している人もいるが、ほとんど凡打だな。くだらなすぎて、いちいちコメントしてられない。申し訳ないから、とりあえず「いいね!」は押しておくけどね。
でも、そんなフェイスブックの投稿でも、何回かに1回は、う~ん、なるほどとか、そいつは面白いというのに出会うんだ。まあ、それで十分だ。ブログもそれと一緒。
毎日続けるには生活の一部にすることだ。仕事にしてしまうと「明日にしよう」もありになってしまう。
生活の一部とは、毎朝歯を磨く、三度のメシを食う、夜風呂に入る、そういうものと同列に置くということだ。だから、書こうかどうしようかなどといちいち考えない。
この「考えない」というのは重要なところで、もし考えると、「書く」と「書かない」のどちらかの選択になって、「書かない」が選ばれる可能性がある。だから、考えない。
自分で言うのもなんだが、私はものごとをよく考える方である。そのために、限りある脳みその働きを無駄に使わないように心がけている。考えることが多すぎると、脳みそがパンクしてしまうからだ。
脳みそのキャパが大きい人は、何でもかんでも深く考えられるんだろうが、自分には荷が重い。だから、より多く「考える」ために、たくさんの「考えない」を用意しておく。
ということで、「石の上にも三年」の後半戦。メシを食うような感覚で、それほど深く考えもぜず凡打の山を築いて行くのである。