お金は互いの能力交換をスムーズにするための道具に過ぎない
毎日ブログを書いていると、あれ、この話前にも書いたかなと思うことがたびたびある。
今日は、「お客はエラクないんだぞ」という話を書こうと思ったのだが、いや待て、前に書いたような気がすると調べてみたら、やっぱりあった。
2014年11月11日付記事「客のくせして威張るんじゃねえ」
今朝のことである。
会社で必要な帳票類をわが社の志村くんが電話で発注していた。私はその言葉づかいに引っかかった。
私「今、『いつ届くの?』って言ったろう。その言い方、変だと思わないか」
志村「いや、別に普通だと思いますけど」
私「だったら、自分の頭の方が普通じゃない。『いつ届きますか?』と言うべきだ」
志村「でも、こっちがお客ですから」
私「そうか。やっぱり、そう考えていたか」
仕事でお金をいただく立場のときは、前かがみになり、お金を払う立場になったときは、今度はそれと同じ角度だけふんぞり返る。そういう人付き合いをしてきたわけだ。
この態度。すべては、お客の方がエライ、金を出す方がエライという考え違いから発している。
私「物々交換って分かるよな」
志村「貨幣のない時代ですね」
私「肉を手に入れようとしたら、それと同程度の価値を有するであろう野菜を相手に差し出す。まあ、等価交換っていうことだな。で、この時、どっちがお客になるんだ? あるいは、どっちがエライんだ?」
志村「う~ん、どっちとは言えないですね。お互いにお客なわけだし。まして、どっちがエライとかは全然ないです」
私「では、野菜の代わりに、肉とお金の交換になったらどうだ。その瞬間、お金を払った側がエラクなるのか」
志村「そう言われると難しいですね。でも、野菜に代わりにお金を使っただけですから、エラクはないと思います」
以上が、お金を払う側がエライわけじゃないという私なりの理屈である。
一人の人間が自前でできることなど高が知れている。
お互いが持てる能力を相互に提供しあうことで豊かな生活が保障される。お金なんてものは、その能力の交換をスムーズに行うための媒介手段に過ぎないのだ。
よって、他人はどうあれ、私自身は、お金を払う立場だからといって、エラそうに振る舞うことはしない。
今日は、「お客はエラクないんだぞ」という話を書こうと思ったのだが、いや待て、前に書いたような気がすると調べてみたら、やっぱりあった。
2014年11月11日付記事「客のくせして威張るんじゃねえ」
今朝のことである。
会社で必要な帳票類をわが社の志村くんが電話で発注していた。私はその言葉づかいに引っかかった。
私「今、『いつ届くの?』って言ったろう。その言い方、変だと思わないか」
志村「いや、別に普通だと思いますけど」
私「だったら、自分の頭の方が普通じゃない。『いつ届きますか?』と言うべきだ」
志村「でも、こっちがお客ですから」
私「そうか。やっぱり、そう考えていたか」
仕事でお金をいただく立場のときは、前かがみになり、お金を払う立場になったときは、今度はそれと同じ角度だけふんぞり返る。そういう人付き合いをしてきたわけだ。
この態度。すべては、お客の方がエライ、金を出す方がエライという考え違いから発している。
私「物々交換って分かるよな」
志村「貨幣のない時代ですね」
私「肉を手に入れようとしたら、それと同程度の価値を有するであろう野菜を相手に差し出す。まあ、等価交換っていうことだな。で、この時、どっちがお客になるんだ? あるいは、どっちがエライんだ?」
志村「う~ん、どっちとは言えないですね。お互いにお客なわけだし。まして、どっちがエライとかは全然ないです」
私「では、野菜の代わりに、肉とお金の交換になったらどうだ。その瞬間、お金を払った側がエラクなるのか」
志村「そう言われると難しいですね。でも、野菜に代わりにお金を使っただけですから、エラクはないと思います」
以上が、お金を払う側がエライわけじゃないという私なりの理屈である。
一人の人間が自前でできることなど高が知れている。
お互いが持てる能力を相互に提供しあうことで豊かな生活が保障される。お金なんてものは、その能力の交換をスムーズに行うための媒介手段に過ぎないのだ。
よって、他人はどうあれ、私自身は、お金を払う立場だからといって、エラそうに振る舞うことはしない。